同じ言葉、脳がとらえる言葉

昨年の年末頃だったか、一週間ぐらいの間に、様々な場面で「複雑系」という言葉に出合った。内田樹さんの「日本習合論」、とあるメールマガジン、雑誌の記事、などなど。きっと、正しく言うと、何度も目に入った。記憶に残った、という事で、今の私に「複雑系」という言葉が必要なんだ、と思った。

 

バカの壁」があって、自分の興味のないことは目にも耳にも入らないのだが、気になっていることは、どうも視神経も聴覚神経も無意識のうちに捕まえてくるらしい。

 

あの時、私の頭の中では色々なことが思いつきすぎて、収拾がつかなくなっていて、世の中は「複雑系」である、ということで言い訳にしたかったのかもしれない。

と、言葉に出合うって、自分で求めているんだろうな、とおもった。

「まぁ、複雑系だから、しょうがない、気楽にいこう・・・」と言いたかったのかもしれない。

 

そんなことを思い出したのは、北村薫さんの「詩歌の待ち伏せ」を読んだから。

タイトルから、いったいどんな本なんだろうと思っていたけれど、あぁ、なるほど、そうきたか、これを待ち伏せといったわけね。なるほど、うまい!秀逸!なんて、おもったりした。


自分の頭の片隅のフレーズに、ふとした時に出合った感じ。あ、言葉に待ち伏せされた。って感じ。

 

北村さんの本はほとんど読んだことはなかったのだけど、「詩歌の待ち伏せ」を読んだ知人の感想から、なんとなく日本語を使うものとしては読んでおいた方がよいような気がして手に取った。って言っても図書館だけど。

 

素敵な本だった。

 

60編のエッセイ集。一つの言葉、あるいは詩歌から膨らむ北村さんの世界が楽しい。

言葉として、日本語の勉強にもなった。

『宮城』、宮城県か、とおもったら、そうではなくて、、、宮城まりこさんが発した高貴なダジャレ?なのだけど、”きゅうじょう”と呼んで、皇居のこと。説明するとながくなるので省くけど、とある場目で高貴な方の隣に自分の席が用意されていたことに対して、宮城だからよろしいですかね、と受けた宮城さん。宮城関係の他の詩歌もでてくるのだけど、いま、皇居のことをきゅうじょうなんて呼ぶ人はいないだろうな、、と思った。私は、呼んだことない。一つ、学んだ。


詩歌の待ち伏せは、他にもいっぱい面白い言葉、詩歌、翻訳色々が出てくるのだけれど、ちょっと話は飛んで、、、。

 

翻訳がでてきて思い出したのが、米原万里さんのエッセイでたびたび出てくる、”失楽園かとおもったら「としまえん」だった”というおじさんのスピーチをどう通訳するか問題。失楽園も日本人なら、渡辺淳一失楽園を思い起こすだろうけれど、海外なら、ミルトン作の失楽園。「としまえん」は日本なら「豊島園」あるいは、ここで音をきけば、「年増園」。。。。そりゃ翻訳しようにも、、、難しかろう。。。若い女の子を期待していってみたら、年増の女たちだった、、みたいな話。翻訳と違って通訳はスピード勝負で、長文で説明している時間はない。。。という通訳の悩みの話だった。「としまえん」、今の時代なら、速攻セクハラアウト発言だな。。。まぁ、昭和のおじさんが好きそうなダジャレ、、、、。(昭和のおじさんごめんなさい)。

としまえん、豊島園、年増園。。

としまえん」といえば、三島由紀夫の「肉体の学校」だっただろうか?多分。米原さんが翻訳に困ったおじさんスピーチのと「年増園」の出典は、三島由紀夫だったのかもしれない。「肉体の学校」の中に、40代の女子の会食に居合わせたおじさんが、なんだ「としまえん」というくだりがあった。同様の「としまえん」の使われ方、これをしっていると、頭の中の想像が膨らむ範囲が倍になる。

私としては、実は、米原さんのエッセイを先に読んでいて、あとから三島由紀夫の「肉体の学校」を読んだので、あ、これだったんだ!って、まさに、待ち伏せされた感じがしたのである。

という事を、、、詩歌の待ち伏せを読んで思い出した。

 

頭に残る言葉は、無意識が探してくる。

なんで、こんなことが頭に残ったかといえば、自分が「年増」だから??

あら、いやだ、、、。

 

「詩歌の待ち伏せ」の素敵なところは、また後日、記録に残すことにしよう。

だいぶ脱線した。。。

 

もう一つ脱線話を残しておくと、さっきZoom飲み会をしていてオリンピックの話題になり、”「かんせんしゃ」をどうするか問題”、、、感染者?観戦者?感染した観戦者、観戦して感染した観戦者。。。spectator、infected person

あぁ、言葉遊び。。。日本語、おもちゃにしてごめんなさい。

言葉って、面白い。