日本国史の源流
縄文精神とやまとごころ
昨日の続きを。。。
ローマ帝国から追放されたユダヤ人は、ディアスポラの旅に出る。ディアスポラとは、「離散」や「離散した民」という意味。そして、ディアスポラの旅に出た人の中には、シルクロードを通り、中国、朝鮮半島を越えて日本にやってきた人たちもいた。そういう人たちは、大秦国(ローマ帝国)からきた「秦氏」と名乗っていた。漢民族とはことなる「秦人」がいたのだ。秦氏とは、当時は柵外の人々、すなわち万里の長城の外に住んでいる民族と言う意味があった。「秦」は「ハダ」と呼ばれていたが、もともとは「ヤハダ」であり「ユダ族→ヤハダ」となってきたのでないか、、と。
で、「秦氏」というのは日本の歴史に重要な役割をはたしてきたのだ、と。
第七章では、「秦氏」が創建したのが「八幡神社」になっている、と言う話が出てくる。「ハタ」が「ヤハタ」神社を作った、と。
「秦氏」ね。あまり気にしたことがなかったけれど、日本における「秦」はユダヤ人と言う信仰の人として受け入れられたのではなく、日本人と同じ人間であり、その能力の高さから社会で活躍できたから受け入れられたのではないのか、と。
へぇぇ。。。
「秦」という名字の友人がいるのだが、もしかしてその能力の高い祖先をもった「秦さん」だったのか?!?なんて、ガッテンしてしまった。
ユダヤと日本の関係については、遺伝学からも言及されている。遺伝学で扱っているのは埴輪の時代とはちがうものの、様々な年代で何度も渡来があったのだろうと。
引用されているのは、崎谷満氏の『DNAが解き明かす日本人の系譜』(勉誠出版 2005年)。
・日本人と中国人や韓国人と、Y染色体(父系遺伝)がかなり違う。
・Y染色体で分類すると、日本人と地中海の人々が同じ系統になる。
・特殊なD2系統は、日本人にしか存在しない。
・YAPという特殊な変異があるのは、DE系統のみ。
・E系統をもつのはユダヤ人。
これらのことから、著者は、ユダヤ系(秦氏)が日本にきて、天皇をたてまつりながら活躍し、全国の大半の神社をつくったのだろう、と。
”ユダヤ人埴輪は、ローマを追われ、日本に渡って日本を愛したユダヤ人たちの想い「やまとごころ」をかたどった像といえるでしょう。”
と。
ちょっと、飛躍している気もしなくもないけど、ありえなくもない。。。藤原氏のように権力にまかせて日本を牛耳ったのではなく、天皇をささえ、神社をたてた秦氏。なるほど、そんなひとたちがいたのか。知らなかった。
第九章では、神道を国家のもとにしたのは、天武天皇、と言う話。そして、天武天皇から聖武天皇はすでに国家概念をもっていた、と。陸続きのヨーロッパの国々で「国民」という意識が目覚めたのはフランス革命以降、と言われるけれど、島国の日本では近代どころか7,8世紀にすでに「国民・国家意識」が成立していたのだ、と。海と言う自然の国境があったのだから、あり得る。かつ、川という境界線もたくさんある日本だもの。
第十章では、『古事記』にある日本神話とギリシャ神話の類似性について。親近性の例として、イザナギとイザナミは、オルフェウスとエウリュディーケに。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトの姉・弟の関係は、デメテールとポセイドンに。。。
かつ、日本神話と『旧約聖書』の類似性は、ギリシャ神話との関連性より高いのだと。
面白い視点。
以前、伊勢のホテルに泊まったとき、聖書と一緒に『古事記』が置かれていて、さすが、伊勢!と思ったことがある。いつか、『古事記』をちゃんとよんでみたいな、とおもいつつ、結構えげつない描写が多くて、、、。『古事記』って、神話と言いつつ、グロテスク。適当に子供用に簡単に書かれたものの方が面白いかも。
十四章の疫病に勝った「やまとごころ」では、天皇は光明皇后の時代から福祉事業をしていて、仏教に帰依された光明皇后が、東大寺、国分寺の設立を天皇に進言したこと、貧しい人に施しをするための施設、医療施設などを設置して慈善を行ったことが語られている。そして、光明天皇が福祉活動に心を注ぐようになった要因は、我が子を亡くしたことにあったのだ、と。母として子を思う気持ちが、皇后として国民を思う気持ちになったのだろう、、と。
それは「やまとごころ」の原型だったのかもしれない。。。
まぁ、子を思う母の気持ちと言うのは、世界共通だと思うけど、、、。
「やまとごころ」と一言で言っても、いろいろな受け取り方があるだろうし、特に定義づけをする必要もないのかもしれないけれど、日本人ならなんとなくぼんやりと、思いやりとか、だまって奉仕する心とか、、、そんな表現をされても、分かるような気がする。無償の愛。
「死ねば仏になる」それが、「やまとごころ」の原型だったというのも、なんとなくわかるような。
縄文の時代から、死者を弔い、自分たちの居住地の近くに葬ったことは、死者への思いがあったのだろうし、苦しむ人のために仏像をつくったり、神社を建てたり、、、。
縄文時代から、いつのまに古事記の神話の世界にとんだのかはよくわからないけれど、お墓、古墳、八百万の神、、、その時代の人の中では繋がっていたのかな。
まぁ、結局のところ、日本の源流は縄文時代にあり、その時代から死者を弔っていたということは、その時代から「やまとごころ」がめばえていたのだ、、、という話のようだ。
歴史というのは、新しい発見によってどんどん解釈が変わっていったりする。三内丸山遺跡の6本の柱の跡、、、ちょっと見てみたくなった。
日本中で見られる古墳も、日本独特のものだったということは、日本の中で人々が移動していたということなんだろう。
すごいなぁ。。。
面白いなぁ。。。
また、解釈が変わるときが来るかもしれないけれど、縄文が原点であることには間違いないらしい。
日本人の起源をDNAで明らかにしようとおもえば、きっとできるのだろうけれど、知らなくてもいいこともあるかなぁ、、、なんて。
にしても、縄文時代の人は言葉は話していたのだろうか。。。文字がないと後世に伝わらないというだけのことで、なんかすごい文学の話をしていたり、、してたら面白いのにな。歌を歌っていたりしたかもしれない。
妄想は自由だ。
妄想は楽しい。