『NHKさかのぼり日本史 ⑧室町・鎌倉  ”武士の世”の幕開け』 by  本郷和人

NHKさかのぼり日本史 ⑧室町・鎌倉 
”武士の世”の幕開け
本郷和人
NHK出版
2012年3月25日 第1刷発行

 

⑦戦国に続いて、そのさかのぼり、室町・鎌倉。

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戦国時代に突入する前、内輪の家督争いから応仁の乱が始まった話で⑦が終わった。では、その家督争いが生じるにいたった経緯のその前が⑧の室町・鎌倉時代の話。


表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
朝廷と決別をはかった武門の覇者—―
彼らはいかにして「真の統治者」となりえたか。
1392年→ 1336年→ 1253年→ 1180年と”学び”によって成長した武士の姿を見る”と。

ターニングポイントは、
1180年 武家政権の誕生
1253年 撫民政策の開始
1336年 室町幕府の成立
1392年 南北朝の合一


目次
第1章 足利義満日本国王」の権力
第2章 足利尊氏「京都」に挑む
第3章 北条時頼 万民当地への目覚め
第4章  源頼朝「東国」が生んだ新時代

 

最初は、室町幕府の始まりから続いていた南北朝問題を解消した義満の話。足利尊氏が「建武式目」を制定して室町幕府を開いたのは、建武3年(1336年)。しかし、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の勢力は、吉野に逃れて京都奪還を目指し続け、尊氏と室町幕府が擁立する京都の北朝と対立し続ける。後醍醐天皇の勢力が吉野にあったので、南朝
天皇家が分裂していた時代。それを、解消したのが、室町幕府三代将軍、足利義満。義満は、政治、文化、随分とやり手だった。武士としても、公家としても頂点を極めていった、というところが義満の特徴

天皇は、古くから日本の統治者で、祭祀権や課税権を持っていた。それが、南北朝分裂で権威を喪失していくなか、義満が祭祀権や課税権を手中にし、実質的な日本の統治者になっていった、ということ。
本来、京都は朝廷、つまりは天皇・公家社会の中心だった。その京都を我が物にしたのが室町幕府であり、足利家だった。

 

義満のやり手ぶりは、京都の「相国寺」の例にみられる。禅の社会では、京都五山と呼ばれる最高の格式をもつ禅寺に、南禅寺天竜寺・建仁寺東福寺万寿寺があった。義満は、そこに自分が築いた「相国寺」をランクインさせるために、南禅寺を「五山之上」として、相国寺をランク2位にねじ込んだ。著者は、これを「アクロバティックな方法」といっている。
そうか、鎌倉五山とちがって、なんで京都は南禅寺が別格になっているのかと思っていたけれど、そういうことだったのだ。

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また、当時「権力者は北から南を見下ろす」という習わしがあったのに、あえて相国寺を御所の北につくった。
やりたい放題、、、って感じだ。2010年に行われた相国寺の発掘調査では、当時の最高級品である中国の青磁白磁がでてきたのだそうだ。
ちなみに、金閣寺も義満。豪華絢爛主義の義満だったのだ。

 

そんな室町時代の基礎を作ったのは、足利尊氏後醍醐天皇楠木正成のサポートを受けて、弱っていた鎌倉幕府を倒す。最初は、尊氏も鎌倉幕府打倒に加わっていたので、後醍醐天皇の味方。でも、倒幕に成功した後醍醐天皇は、武士の存在をないがしろにしたので、結局は、武士から恨みをかい、足利尊氏にも見限られ、建武の新政は、2年半で終わってしまう。
そして、尊氏は、当時の情報の集積地であった京都を、あえて政権をおく場とした。鎌倉では、京都の情報を得るには遠すぎると考えたのだ。その基盤があって、義満の京都でのおお威張り状態につながる。天皇から武士へ、実質上の権力が移行していった。

 

しかし、武士の時代と言えば、鎌倉時代。さかのぼって鎌倉時代にも、朝廷が幕府から権力を奪おうという動きがあった。後鳥羽上皇により、北条義時が中心となっていた鎌倉幕府を倒そうとした企て、「承久の乱(1221年)」。これは、頼朝の妻であった北条政子が武士たちに「鎌倉の恩をわすれたのか!」と呼びかけたことで、幕府側の勝利に。

そして、その後、北条泰時により、武家社会での慣習や道徳をもとに、はじめての武家法「御成敗式目」が制定された。

それは、「道徳」という点で新しい。農民、民を大事にせよ、ということが書かれていたのだという。「撫民政治」の始まりということ。今の言葉で言えば、「ノブレスオブリージュ」。強きものは、弱きものを助ける。

それまでは、権力者は農民から富を奪うばかりだったけれど、それではいけない、、、と。

この構造って、江戸時代の島原の乱のあとと同じだ・・・。

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歴史は、繰り返す。

ちなみに、鎌倉時代の武士は、公家に比べるとだいぶおバカだったらしい。武士は「教養」が低く、国司とよばれた上級武士ですら、当時の日記を見ると、文字は拙く、大半は「かな」で書かれていたのだ、と。公家なら、漢文が書けて当たり前で、短歌をたしなむ教養があったけれど、武士は、字はへただし、漢字がかけない、、、。それではいけない、ってことで、武士は、公家からも統治方法など含めて、学ぶようになっていった。

御成敗式目」は、統治者となるために必要なことがかかれていたのだ。つまり、武士にとっての教科書だったわけだ。そして、武士は、民衆をいじめちゃいけない、ということも学んでいく。泰時の孫にあたる時頼は、撫民政治をする一方で、鎌倉に建長寺を建立し、禅僧の僧侶を招いて武士たちを修行させた。

当時のやんちゃな武士たちにとって、禅宗の「自らの欲望を抑える」教えが、「撫民」の精神を植え付けるのにうってつけだった。そして、鎌倉には京都と同じように、鎌倉五山が建立される。

建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺

その、鎌倉幕府の始まりについては、今では諸説あるのはご存じの方も多いだろう。私が学校でならったころは、「イイクニつくろう鎌倉幕府」だったけれど。
史実からすれば、頼朝が征夷大将軍に任命されたのが建久3年(1192年)であるということはかわらないのだけれど、鎌倉幕府の始まり、ということでは諸説あるようだ。

① 1180年説:頼朝が東国支配権を樹立した
② 1183年説:頼朝の東国支配権を承認する宣旨がくだされた
③ 1184年説:公文所および問注所を開設した
④ 1185年説:守護・地頭の任命を許可する勅諭がくだされた
⑤ 1190年説:頼朝が日本総守護地頭に任命された
⑥ 1192年説:頼朝が征夷大将軍に任命された

ま、どれでもいいけどなぁ。。。歴史家にはそうはいかないのか・・・・。

鎌倉幕府の正史として編纂された歴史書吾妻鏡には、東国に拠点を置くと決めた頼朝のことが書かれている。まぁ、伊豆に流されていた頼朝であり、父祖のゆかりの地が鎌倉だったのだ。頼朝は、朝廷から自由になりたい、という思いもあったようだ。だから、京都から離れた土地を選んだ。朝廷の傘下にいるのでは政権の自立は出来ないと思っていたのだ。

歴史の中ではわりと地味な鎌倉~室町だけど、野望に燃える人々は、いつの時代にもいたのだ。

 

そういえば、先日、鎌倉の御成小学校の前を通ったとき、「遺跡発掘中」の文字が目に飛びこんできた。もともと、Timesのコインパーキングだったのだけれど、昨年、工事が始まって、あぁ、またマンションでも建つのかなぁ、と思っていたら、掘り返したあと、ずっと、土のまま、、、、。どうやら、何かの遺跡が見つかっちゃったらしい。先日も、数人の人たちが、せっせと掘り起こしていた。。。

鎌倉、私にとってはちょっと身近な街だけれど、歴史の土地なのだ。

 

鎌倉時代の方が荒々しくて、室町時代の方がきらびやか、ってイメージがあったけれど、撫民政治というものを言い出したのは鎌倉時代だったのだ。

なるほど、流れをさかのぼりつつ見ていくと、歴史って面白い。

 

鎌倉時代に芽生えたノブレスオブリージュ。でも、忘れてしまって、反省すべき歴史は繰り返される。

現代も、かわらないなぁ、、、、なんてね。