『マンガ日本の歴史16 朝幕の確執、承久の乱へ』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 16
朝幕の確執 承久の乱
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年2月5日 初版印刷
1991年2月20日 初版発行


 『マンガ日本の歴史 15 源平の内乱と鎌倉幕府の誕生』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

15巻では、壇ノ浦の戦い平氏がやぶれ、源頼朝鎌倉幕府を設立するまで。16巻では、頼朝の妻・政子の活躍から北条家の活躍。

 

目次
序章  女人入眼の日本国
第一章  尼将軍政子
第二章  右大臣源実朝
第三章  承久の乱
第四章  執権北条泰時

 

1199年、年明け早々に53歳の生涯を終えた源頼朝にかわって、二代将軍となったのは、嫡子頼家

頼家については、本書以外でも色々とかかれているけれど、最終的には母・政子の手のものに暗殺される。狂っていたとも言われるし、暴君だったとも言われている。本書のなかでは、18歳で頼朝を継いだものの、、、、器量なし、、という描かれ方。

政子はすでに出家して、「尼将軍」とよばれていた。父の北条時政とともに頼家を将軍とした以上は、なんとか鎌倉幕府を運営しようとし、大江広元を中心に、優秀な御家人13人をえらんで仕組みをつくる。自分勝手な裁断をする頼家に代わって、13人の有力御家人による合議制で訴訟の裁断が行われるようになった。

 

それがおもしろくない頼家は、将軍無視は許さん!といって、訴訟以外は好きにさせてもらう!と、さらにわがまま勝手な振舞いに・・・・。御家人のひとり安達影盛の留守には、美女で誉れ高い妾女を近臣に命じてかっさらうという狼藉ぶり。頼家の理不尽な振舞いは、御家人同士の諍いをも引き起こし、東国を不安に陥れた。

 

1202年、頼家は従二位征夷大将軍として、名実ともに頼朝の後継ぎとなったのだが、1203年には急病で倒れてしまう。
政子らは、後継ぎとして、1人を指名するのではなく、頼家長子・一幡と、頼家弟・千幡(後の実朝)とで「関東28カ国地頭職と総守護職」、「西国38か国の地頭職」と、それぞれに継がせることとする。

 

だが、その決定に、一幡の母・若狭の局、そして義父・比企能員(ひきよしかず)は、不満だった。病床の頼家は、母である北条家を討つことを口走るようになる。そのことを知った政子と時政は、比企能員をていよく自宅に呼び寄せて、殺害してしまう。

「謀反の企て露見したることよって本日誅殺せり!」

能員誅殺の知らせを聞いた比企一族は、一幡を擁して小御所に立てこもって抵抗したが、もろくも敗北。 一族のほとんどは、 若宮一幡とともに自決した。

 

これによって頼家ば、剃髪・出家させられ、病の回復とともに伊豆修善寺に幽閉。千幡が三代将軍・実朝となる。

 

頼家は、幽閉さきの修善寺で、北条家の刺客によって暗殺された。

我が子を殺害し、我が孫に将軍をつがせた政子。。。。尼将軍。

 

13歳で将軍となった実朝は、北条時政大江広元を政所別当とした。というか、、、そうあてがったのは、北条家。

 

実朝は、頼家とはちがって、和歌などの文学に才能のある、青年だった。妻をめとる話が出ても、「我妻は都にいる」といって、知らん顔。政治と和歌にいそしんだ。

 

そのころ京都では、二条院御所で、後鳥羽院(25歳)が藤原定家(43歳)に命じて、新古今和歌集の選集に没頭していた。そこには、後鳥羽院の乳母であり、西の女大将とよばれた藤原兼子(卿の局)もいた。兼子は、東の女大将・北条政子から、実朝の正室に公卿の姫君をいただきたいという頼りをもらう。

 

坊門信清娘(ぼうもんのぶきよのむすめ・13歳)が、 華やかな強風文化とともに鎌倉へやってきた。信清娘も、和歌をたしなみ、実朝と仲良く暮らし始める。ところが、、、そのころ御家人三浦義村(みうらよしむら)と 畠山重保(はたけやましげやす)の間で諍いが勃発。そこに、時政と他の御家人の動員もあいまって、合戦に。時政は後妻牧の方のいいなりで、畠山父子は、北条義時の指揮する正規軍に討たれて死亡した。

ところが、のちに畠山家の無実が発覚し、その事後対策にあたって、北条義時と政子に対して、義時の息子時政が対立するようになる。

 

今度は、実朝暗殺の陰謀が発覚する。牧の方と時政の陰謀だった。怒り狂った政子は、御家人をみかたにつけ、父親である時政を出家させ、政治の世界から引退させる。

 

義時は筋の通った政治を行い、 柔軟な態度で御家人たちの信頼獲得に努め、 着実に体制を固めていった。

義時&政子 体制が確立すると平穏な時が戻った。

 

藤原定家の門弟内藤兵衛尉友親によって、後鳥羽院より『新古今和歌集』が実朝のもとへ届けられた。和歌を楽しむ、若い実朝たち。実朝の和歌をはじめとする京風文化への傾倒は一層拍車がかかった。

実朝の読んだ和歌は、のちに金槐和歌集としてまとめられた。

平和な状況がつづいたが、義時に対する不満が密かに醸成されていた。

 

1213年、和田義盛を中心に、頼家の遺児を担いで義時を倒そうという陰謀が発覚。御家人の謀叛に、北条義時はだまっていなかった。「和田合戦」は、 幕府 開設依頼 鎌倉を舞台とした最大の合戦となった。勝負は、義時に。

 

実朝は、宋の仏師にであったことで、さらに高い官位をもとめて宋にわたることを計画する。みずから船を作ることを命じるのだが、出来上がった船は、重すぎて海に曳きだすことができなかった・・・。

 

実朝には子どもができなかった。政子は、世継ぎのために、ふたたび藤原兼子に相談し、皇子を次の将軍にする約束がされる。実朝は、右大臣という望みうる最高の官位を手にする。

 

1219年1月27日、実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で執り行われた。
そこで起きた悲劇が、、、、頼家の遺児・公卿による実朝暗殺。有名なイチョウの影に隠れて、実朝を殺害。公卿はその時、鶴岡八幡宮別当であった。

実朝の暗殺によって、次期将軍に皇子をという話が途絶えてしまう。院と幕府の間に緊張がたかまる。皇子将軍ご破算のあとは、摂関家左大臣九条道家の2歳の子・三虎が四代将軍となる。後の頼経。実際には、政子が将軍の代わりをつとめた。

 

後鳥羽院は、鎌倉を討とうとする。慈円は「愚管抄を執筆中で、その計画を批判した。しかし、承久の乱」勃発。後鳥羽院は、前例を無視して幕府への連絡なしに、順徳天皇の譲位と4歳の懐成(かねなり)親王の即位を断行。
延暦寺・東寺・仁和寺に銘じて、義時を討とうとする。執権義時が朝敵と名指しされたことに動揺した御家人たちだったが、政子が彼らを一致団結させる。尼将軍、ここにあり!

「その御恩は山よりたかく、海より深いものです!
 御恩を忘れたのか!」

幕府はただちに反撃開始。東海道東山道北陸道から京に攻め上った。宇治川を越えて、西軍を粉砕。幕府軍は決定的な勝利をおさめた。

後鳥羽院は、義時追討の宣旨をとりけし、鎌倉は京に完璧な勝利をおさめた。天皇の権威の無条件の絶対性は崩れた・・・。

 

泰時(義時の子)と時房(義時の弟)は、そのまま京都にとどまり、朝廷を監視しし、畿内近国以西の御家人の統括にあった。「六波羅探題」の発祥。

順徳天皇佐渡に、後鳥羽院隠岐島に流刑となり、院に加担した多くの武士は死刑となった。

 

実のところ、院に加担した御家人の多くは、頼朝の縁者だった。結果的に、承久の乱によって、政子と義時による北条家体制が確立することとなる。

 

1225年、尼将軍政子が69歳で死ぬ。義時はすでになく、大江広元も逝去していた。幕府の実権は、義時の嫡男、泰時を中心とする第三世代の手に移っていった。

 

そして泰時は、若宮大路に新しい幕府を建築する。新しい執権政治は、泰時と時房による正副執権と評定衆の合議制としてはじまった。

それから数年、日本は冷夏と天候不順がつづく。凶作は飢饉をもたらし、1231年はさらに大飢饉に見舞われ、連日餓死者が絶えなかった。藤原定家はその様子を『明月記』に日記としてのこしている。

 

1232年(貞永元年)、泰時は政治を安定させるために、御成敗式目」=貞永式目として基本原則を書き記した。『吾妻鑑』には、50箇条となっているが、実際には51箇条からなる法律だった。これによって、武家政権は一段と飛躍を遂げた。

1238年、僧浄光の勧進で長谷の大仏作りが始まる。幕府はそれを後援した。

1242年、大仏の完成をみることなく、泰時は60歳でこの世をさった。

 

頼朝の幕府創建以来半世紀を経て、武家政権は新しい局面へ・・・。

 

ちなみに、天皇隠岐島流しの歴史は、後鳥羽上皇(第82代天皇)が承久の乱(1221年、vs幕府及び北条泰時)の後、後醍醐天皇(第96代天皇)が元弘の乱( 1331年、vs幕府及び北条高時)。

頭の中が、こんがらがるなぁ。。。。