新渡戸稲造 1862~1933
我、太平洋の橋とならん
草原克豪(くさはら かつひで)
藤原書店
2012年7月30日 初版第1刷発行
とある懇話会で、新渡戸稲造をテーマに、著者の草原さんのお話をきけるので、予習として読んでみた。
図書館で予約したのだけれど、なんと、厚さ5cmはあろうか、、、という500ページ超の分厚い単行本。これとは別に、『 新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか』が課題本になっているので、こっちは、、、あまりの分厚さに読むのをやめようかとおもって、一度は借りて帰らなかった。そうこうしているうちに、予約本の取り置き期限が切れ、、、まぁ、いっか、と思っていたのだが、懇話会のメンバーから、事務所にあるから読みにくればと言われ、、、やはり、おすす本なのか、、、と、手に取って読んでみることにした。
著者の草原さんは、1941年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。 1967年から1997年まで 文部省に勤務、 その間に ユネスコ本部に出向。 1997年から2009年まで 拓殖大学北海道短期大学学長兼拓殖大学副学長。拓殖大学名誉教授。著書多数。
もしかすると、私の母と同い年くらい。今も現役で各方面で活躍していらっしゃるのは、すごい。。。
本書は、まさに、 新渡戸稲造の伝記の様な一冊。
表紙には、稲造の写真。そして、表紙をめくると袖には、
”「 良き国際主義者は、 良きナショナリストでなければならず、 また逆でもなければならない。・・・・・自分の国に忠実でない人は、 世界正義に忠実であるかどうか 頼りにならない。 人は自分の国に尽くすことによって国際主義のために役立つのである。 一方、 ナショナリストは、 国際的感覚を身につけることにより、 自分の国の利益と名誉の発展に最もよく貢献することができる。」 新渡戸稲造。”
と。
なんて、素晴らしい言葉でしょう。全ての政治家に、全ての大人に、必要な言葉。もちろん、私にも。国をさらに小さい単位にして考えてみれば、どんな人にも当てはまるように思う。
目次
まえがき
第一部 刀を捨てたサムライ
第一章 盛岡藩士の DNA
第二章 偉い人になっておくれ
第二部 開拓者精神
第三章 札幌農学校への転校
第四章 アメリカ留学への賭け
第三部 辺境からの挑戦
第五章 北海道に理想郷を築く
第六章 カリフォルニアで誕生した『武士道』
第七章 台湾の産業振興
第四部 人格主義の教育者
第八章 エリート教育への新風
第九章 弱き者への慈愛と同情
第五部 文明の伝播としての植民思想家
第十章 原住民の利益を重視すべし
第十一章 個人として強かれ
第六部 国際理解と平和の伝道者
第十二章 日米の相互理解
第十三章 ジュネーブの良心
第七部 インターナショナル・ナショナリスト
第十四章 憂国のジャーナリスト
第十五章 祖国への忠誠
第八部 残照
第十六章 甦る新渡戸精神
参考文献
新渡戸稲造関連年譜(1862ー1945)
新渡戸家系図
主要人名注
主要人名索引
感想。
なんたる、大作!!すごい。これは、、、すごい。
そして、面白い!!
伝記としても面白いし、明治維新から戦前の日本史勉強としても面白い。
すごい。。。。
この分厚さなので、チラ見でいいかなぁ、、、と思ったのだけれど、惹きこまれるようにどんどん読んでしまった。
若いころの稲造のチャレンジ精神に惹かれる。そして、本の読み過ぎで目がわるくなり、本が読めなくなってしまって精神的にまいってしまうことがあったという、、、その弱さにも惹かれる。『武士道』がかかれたのは、働き盛りだというのに臥せってしまった間に、その療養の間のことだったのだ。
立ち止まることの大切さ、、、の一つかもしれない。
たしかに、新渡戸稲造は、『武士道』を書いて日本を世界に知らしめた人として有名だし、5000円札の顔にもなっている。でも、意外と、、、あんまりその詳細は知られていないのではないだろうか。でも、その活躍は本当に多岐にわたっている。また、時代からして多くの日本人が海外に学びに行っていた時代であり、多くの学びを日本に持ち込んだ時代。津田梅子の女子英語学校の設立も手伝っている。
なんというか、、、本当に、波乱万丈の一生だったのだ。
盛岡藩士の子として1862年に生まれた稲造は、1867年にわずか5歳の時に父を亡くし、大政奉還という日本の大変革の時代の流れに翻弄される。盛岡藩に限らず、東北の多くの武士階級は賊軍とされ、新政府に登用されることはなかった。
「私は、故郷の町が降伏した時をよく覚えている。私たちは強い屈辱感を覚えた・・」とのちに語っている。わずか6歳の時。
賊軍とされた東北の多くの人は、学問しか身をたてる道がなかったのだ。だから、稲造も9歳で東京の叔父(太田時敏)のもとに養子にだされ、東京で学問に励むようになる。
司馬遼太郎が岩手県出身者の共通点を指摘した言葉が引用されている。
”原敬、米内光政、新渡戸稲造は精神のダンディズムを感じさせる。 彼らは常に個々に振る舞い、 かつての 薩長人のように郷党という利益保護団体を作らない。”
なるほど、、、。明治新政府は、薩長の郷党のかたまりだった、ということ。
当時の日本は、五箇条の御誓文 にある「広く知識を世界に求め」を地で行動していた。稲造が上京した1871年、岩倉使節団が出発している。
そうか、エズラ・ヴォ―ゲルが日本の成功要因に「集団での知識追及」といった日本の知識欲の根源は、五箇条の御誓文にあったのか。。
稲造は、 東京外国語学校へ進み、卒業後、1877年、札幌農学校に第二期生として入学する。クラーク博士の札幌農学校。クラーク博士は、1年しか札幌に滞在しなかったのだが、その影響力は莫大だった。宣教師ではないのでキリスト教を布教するわけではないけれど、クラーク博士の熱心な教育に生徒たちが心底惹かれていく。寄宿舎で過ごす生徒の元へのしばし通い、健全な頭脳や体格を維持するうえで、「飲酒や喫煙」を禁じることとした。もともとは、クラーク博士はアメリカから数ダースのワインを持参してきた。それを捨てて自信の禁酒宣言をして模範を示した。札幌農学校から、飲酒・喫煙の習慣は消えていった。
クラーク博士は、規則で縛るのではなく、「ビー・ジェントルマン」紳士たれ!の一語で、生徒自身の自覚と責任を求める方針をとった。
なんてかっこいい。。。。
私が当時生きていたなら、札幌農学校へいきたかった。授業はすべて英語。農学から、経済と幅広く、リベラルアーツを学べる全寮制の学校。いまだから、、、あこがれる。
二期生の稲造たちが入学したのは、クラーク博士が帰国したあとだったけれど、クラーク博士の教えは、生徒たちに染みついていた。
ある日、稲造は、寄宿舎で手にしたアメリカの雑誌で、トーマス・カーライルの言葉に感動する。
” 人間がこのようにある目的は、行為であって思索ではないということを肝に銘じなさい。 そして自分今自分が何を成し得るかということを考え、 それに向かって全ての能力を傾けなさい”
おっと、今の私にも痛い言葉!!
「行為」の大事さ。
知行合一の言葉ともいえる。
また、カーライルの『サーター・レザータス』という本を読んでいるとき、自分を奮い立たせる心の中の声を聞く。
「 確信というのはどんなに立派なものであっても、 それは行為に移されるまでは ただの理屈で何の役にも立たないのだ。 どんな疑問も、行為によらなければ解決できないのだ。 だから 思い悩んでいる人は、最も手短の義務をなせ。 その時、 次の義務は明らかになっているだろう。 お前に求めているものはお前のところにあるのだ。」
おぉ。。。御意!
札幌農学校を卒業すると、一度は官職についた稲造だったが、縁あって、東京大学に入学する。この時、文学部教授、外山正一の面接で「東京大学に入って何を勉強するつもりか?」と聞かれた時、答えたのが、「 太平洋の橋になりたい」という言葉。
「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に復旧する媒酌になりたいのです」と説明した。
稲造は、英語塾で教えるバイトをしながら、学生として学び続ける。その時の英語塾の生徒には、夏目漱石もいたそうだ。
そして、その後、アメリカへ渡ってジョンズ・ホプキンス大学で学ぶ。そこで、すでにキリスト教に熱心であった稲造はクエーカー教徒になり、後の妻、クエーカー教のメリーと知り合う。その後、官費でのドイツ留学の機会を得て、イギリス経由でヨーロッパに渡る。
エディンバラでは、カーライル・ハウスにも立ち寄った。
そして、ボン滞在中、かのラヴレー教授との対話の機会がおとずれる。
「宗教養育がない?」との驚きの声。そこから、『武士道』執筆へ。。。
1891年、遠距離恋愛、国際結婚というおおきな壁を乗り越えて、メリーと結婚。6年ぶりに日本へ帰国する。
1891年は、内村鑑三の不敬事件が起きた年でもある。「教育勅語」に対して最敬礼をしなかったとして批判された事件。日本では、「教育勅語」が道徳となったけれど、キリスト教とは相いれない考えがあったのだろう。
札幌農学校の学友である稲造は、帰国早々に内村の元を尋ねている。
それにしても、新渡戸稲造、内村鑑三、、と、、どれだけすごい人を生み出したのだ。札幌農学校。ほんと、今もあったら、学び直したい・・・。
そして、稲造は、札幌農学校で教えながら、家庭の事情で学校へ通うことのできない人たちのための夜間学校を設立している。それは、メリーの実家であるエルキントン家に孤児で引き取られて、暖かく育てられた女性からの遺産がメリーのもとへはいったことが資金となった。
稲造は、妻・メリーの財力に助けられている。
稲造は、女性を男性の奴隷とは考えていなかった。「男性が縦糸だとすれば女性は 横糸であって、 両者のどちらが欠けても 織物は完全とは言えない」
なかなか、素敵な表現である。
稲造とメリーは、1892年には待望の長男誕生に恵まれるが、なんと生後7日で亡くなってしまう。メリーは体調を崩し、1年半、フィラデルフィアに戻り療養にあたった。そうこうしているうちに、稲造も体調をくずす。働きすぎもあったのだろう。
35歳の働き盛りのときに、働けないほどに体調をくずしてしまった稲造。どれほど、悔しかったことか・・・。
そして、稲造もアメリカで療養する。そののち、後藤新平からの熱心な依頼をうけて、台湾総統府技師として台湾へ。
本書を読んで、はじめて、台湾総統府の日本の歴史の中の位置づけを理解できたような気がする。また、この時「植民政策」ということを考えるようになり、「原住民の利益第一」をもっとーとする教えが、拓殖大学で教えられるようになる。
後藤新平もまた、日本政府の言いなりになるのではなく、現地民族の文化を尊重すべきという立場をとった。
「ヒラメの目が左にあるのを、おかしいからといって真ん中にもってくることができないように、生物学的に同じようにならないことがある」と。
それから、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授、第一高等学校校長、、、と教育の場で活躍。また、日米交換教授、国際連盟事務次長、と幅広く活躍する。
稲造が生徒たちに教えたのは、
「個人として強かれ」ということ。
何か問題が起きた時に、自分で何もせずに国を頼るのではなく、まずは、自分で問題対処にあたってみるべし、ということ。
当時の考えとしては、進んだ個人主義ともいえたのだろう。
そして、稲造は、「デモクラシーは国の品性」といった。当時の修養の書、『実業之日本』に多くを寄稿し、デモクラシーとはないかについても語った。
国際連盟では、知的協力委員会を創設して、連盟として、教育、科学、哲学、研究など、国際関係改善のためにかくこく間に思想知識の交換をはかることに取り組んだ。その時、一緒に活動したのが、パリ大学のキュリー夫人や、ベルリン大学のアインシュタイン教授、哲学者ベルクソン。小林秀雄が途中で筆を折ったベルクソン!
最近、キュリー夫人がキーワードになっている文章によく出あう。。。
いやぁ、、、本当にうらやましすぎる。
キュリー夫人は、人づきあいが嫌いなことで有名だったけれど、稲造が主催するこの会合にだけは参加して、稲造とも語り合っていた。
いやぁ、、、うらやましい!!
知的協力委員会は、戦後の1946年、ユネスコへと活動を移した。
そして、日本が成長していくなかで、アメリカの反日活動が活発になることに心をいためつつ、稲造は、最後まで、「太平洋の橋」として活動を続けた。
最後は、カナダで病に倒れ、亡くなってしまう。数年前には、後藤新平、津田梅子、内村鑑三ら多くの友たちが亡くなってしまっていた。
本当に、どれだけ多くのことを成し遂げた人なんだろう。
稲造語録をちょっと覚書。
・”Haste not, Rest not. 急ぐなかれ、たゆむなかれ
・センモンセンスより、コモンセンス
・人生はアクションだ(行動だ)
・デモクラシーとは国の品性
とにかく、、、かっこいい人であったということがよくわかる。世界を駆け巡る様子は冒険ストーリーの様でワクワクドキドキ。
また、ずいぶんと読みやすい文体でまとめてくださっているところもありがたい。流石、草原さん。。。
分厚いけど、読む価値のある本。すでに絶版になっているようだけれど、蔵書にしてもよいとおもった。
読書は楽しい!