マンガ日本の歴史 17
蒙古襲来と海外交流
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年3月5日 初版印刷
1991年3月20日 初版発行
『マンガ日本の歴史 16 朝幕の確執 承久の乱へ』の続き。16巻では、頼朝の妻・政子の活躍から北条家の活躍、泰時が「御成敗式目」をつくった。
17巻では、鎌倉時代の一大事、元寇(文永の役と弘安の役)が歴史の流れを変える。
目次
序章 アジアの嵐と予言者日蓮
第一章 文永の役
第二章 さまざまな旅
第三章 弘安の役から得宗専制へ
その頃、アジア大陸ではチンギス=ハーン(幼名テムジン)の勢力が拡大。テムジンとは、 鉄を作る人、という意味で、チンギス=ハーンのモンゴル帝国は、馬蹄に欠かせない製鉄の技術をもって、騎馬軍団で東奔西走、世界制覇を目指した。
チンギス=ハーンは、モンゴル帝国の始祖。その孫にあたるのがフビライ・ハーン。フビライは、中国風に自分を皇帝と名乗り、元の初代皇帝になった。だから、「元寇」。ちなみに、ウズベキスタンのサマルカンドを破壊しつくしたのもフビライ。フビライの時代になるとモンゴル帝国は遊牧の騎馬軍団だけでなく、農業の時代になると考えて、土地をもとめて日本まで責めてきたらしい。
大陸でモンゴル帝国が勢力をふるっているころ、日本では、「国難がやってくる!」といって、従来の鎌倉仏教、念仏や禅の教えを非難する僧が現れた。それこそ、日蓮。日蓮は、 『 立正安国論』を書いて、薬師経の教える7難(地震、 疫病、暴風雨、 火災、 旱魃、 他国侵逼(しんびつ)、 自界叛逆(じかいほんぎゃく))が迫っていると幕府に進言するが、無視される。
よく考えてみれば、この7難というのは、いつの時代でもあり得る危機ともいえる・・・。
そして、日蓮がいったように、他国侵逼、つまり元寇がやってくることになる。
そのころ鎌倉では、得宗(鎌倉時代の北条氏惣領の家系)時頼が、南宋からやってきた禅僧・ 蘭渓道隆に建長寺を開かせたり、高徳院の大仏があがめられたりしていた。そんななか、日蓮は、南妙法蓮華経の 法華経以外は、邪道だと非難したので、逆に、幕府からにらまれて、一時、佐渡流しにあっている。
また、時頼の時代には、藤原頼経(4代将軍)に順う源氏の流れをくむ御家人たちとの確執が高まり、時頼はそれらの勢力を排除する。この時、足利泰氏も出家。後の足利尊氏に続く家系。
1268年、大宰府にフビライからの国書が届く。開国をせまり、交易しようというものだけれど、その内容は明らかに恫喝を含んでいた。北条時宗と朝廷は、ここで「うん」といったら馬鹿にされちゃうぜ、ってことで、国書を無視。一方で、西国には異敵に供えるようにと令をだす。
そして、とうとう、、、運命の元寇。1274年文永の役。対馬や壱岐は、あっという間に蹂躙されてしまったが、九州本土は被害を免れる。有名な、神風といわれる暴風雨。。。
1281年、弘安の役。やはり、暴風雨で日本は救われる。
このとき、闘った地元の武士たちは、御恩に答えたのに褒美がもらえないことに不満をつのらせる。時宗をささえて御恩奉行として働いていた安達泰盛(のちの覚真)が幅を聞かせていく。が、1285年には、平頼綱による「霜月想像」で、安達は倒される。平頼綱による恐怖政治が続いたが、これを執権貞時が成敗、自害に追い込む。23歳の執権貞時は、権力を手中にし、得宗専制が頂点へ・・。
元寇で日本が勝った、というか侵略を免れた理由として「神風」がよく語られるし、教科書にも記載されていたけれど、本書ではそれだけではなく、
元軍覆滅の真の理由は、
1.元々 騎馬戦が得意な 元軍は海戦に不向きであった
2.主要船舶が高麗や南宋に命じて作らせた急造船であった
3. 高麗や南宋の降兵を含めた混成軍団で戦意が乏しかった
とある。
負ける要因というのは、いつの時代もかわらないかも、、、なんて思う。
さて、得宗専制はいつまで続くか、、、、。と、続かない話が第18巻につづく。
日蓮って、のちのちまで色々出て来るけれど、そうか、禅宗を否定していたのか、、、と、新たな気づき。思想が思想を否定する、宗教が宗教を否定する。う~ん。いつの時代も変わらない・・・。
歴史を知るのは、大事だ。。