『自分疲れ ココロとカラダのあいだ』  by 頭木弘樹

自分疲れ
ココロとカラダのあいだ  あいだで考える
頭木弘樹(かしらぎひろき)
創元社
2023年4月10日  第1版1刷発行 

 図書館の棚で目に入ったので借りてみた。頭木さんの本。

 

『食べることと出すこと』で衝撃を受け、 以来 何冊か彼の本を読んでいるが、どれも、心に響く。NHKラジオ深夜便 絶望名言』は、中でも気に入った一冊。

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表紙を開くと、
” いちばん大切なのは、私だけの心のこと、
 私だけの体のことなのに。
そういう 「個人的なこと」をひろいあげてくれるのが 文学だ。
 そういう文学の力も借りるため、 今回、
 文学作品を色々ご紹介していきたいと思っている。
(映画や漫画なども)  「はじめに」より”

と。

「はじめに」でいっているようにページをめくっていくと、様々な文学作品からの引用がたくさんある。夏目漱石安部公房をはじめ、『ジキルとハイド』、、、、etc。

 

目次
はじめに
1章 「自分」とは「心」なのか「体」なのか 
2章 体の操縦法 心の操縦法
3章 体が変わると心が変わる
4章 心はいくつある? 体はいくつある?
5章 「食べられない」と「漏らす」 
  あなたの心と体を社会はどう評価するのか
6章 分けないことでわかる
 ココロとカラダのあいだ
おわりに 弱い本
ココロとカラダのあいだをもっと考えるための作品案内

 

感想。
おぉ。。。
相変わらず、しみるねぇ。。。
共感の嵐。
私は、ココロもカラダも、どちらかというと図太く、たくましい方だと思うけれど、頭木さんの言葉に、強く共感を覚える。

なんというか、正直なんだな。
hornest が、そこらじゅうを舞っている。

 

わたしは、あまり「自分自身がしっくりこない」という感覚をもつことがないのだけれど、でも、やっぱり、たまにある。

そして、どう感じたとしても、


”とりあえず、この体、これは自分だ。
そして、この心、これも自分だ。”

その通り。

では、心と体、どっちが自分?

どっちも自分。

 

頭木さんは、
体が変化すると心も変化する”を身をもって体験している。
難病潰瘍性大腸炎によって、体がかわり、心もかわった・・・と。

そして、
” 心や体については科学的に語られることが多い。
 脳の海馬という部分が記憶に関係しているとか、思春期にはホルモンの分泌によって体が変化するとか。
とても面白いし 有意義だ。
 ただ、そういう話は「人間は」 という大きなくくりで語られる。個人はそこからはみ出してしまうことがある。
 一番大切なのは私だけの 心のこと 私だけの体のことなのに。
そういう 個人的なことを拾い上げてくれるのが 文学”

そう、抜粋されていた 文章は、こういう文脈だったのだ。

 

「人間は」の話ではなく、「私は」の話なのだ。そして、それは、科学で語られることが無い。だから、文学の力をかりよう、、、と。文学も科学の一つと言えるようにも思えるけど。とにかく、「私は」は、文学の世界だ。

 

1章で、面白い話が引用されている。 紀元前3世紀から伝わるインドの物語。かくかくしかじか、、、、で、二人の兄弟の首が跳ねられ、生き返るためにそれぞれの頭は、別の胴体にくっつけられてしまう。生き返った夫(弟)に喜ぶ妻だが、夫の頭が付いている方、あるいは夫の体が付いている方、どっちを選ぶのか? 自己の認識は頭にあるから、夫の頭がついている方を選ぶ、というはなし。

さて、実際にはありえないだろうけど、あなたなら??

きっと、私でも、頭、つまりは顔でえらぶだろうな、、、と思う。

けど、それは正しいのか?というのが、問いかけ。

 

頭木さんは、だって、亡くなった人の体だって大事にするでしょ?って。震災などで行方不明になって何か月もたっても、人は、その人の身体が発見されるのを望むでしょ?って。

たしかに・・・。

 

あるいは、死んだお母さんがホタルになってやってきた、とか、ちょうちょになってやってきたとか、、、。

神経内科の 駒ヶ嶺朋子によると、 大切な人をなくした後、 多くの人が「 その気配を身近に感じたり 姿を見たり 声を聞く」そうだ。(『死の医学』集英社インターナショナル新書)「悲嘆幻覚」という医学用語までついているらしい。


つまりは、 体から心が 抜け出すということ、 別の体に心が入るかもしれないということは、多くの人の心にしみついている感覚だ、と。
なるほど、やっぱり、体も大事だ・・・。

 

3章では、頭木さん自身が、病気になってから自分の心の変化に気が付いたように、心で思うように身体が動かないことのもどかしさ、つらさ、、、を語っている。でも、多くの人は、「心のもちよう」でなんとかなる、なんて無責任なことをいう。

「気持ちがたるんでいるから、風邪をひくんだ」とか。。。
言葉による、ハラスメントだよな・・・。

 

身体が弱かったゲーテが、そのことで短気を起こす父をどうにも許すことができなかった、、、というゲーテの話がでてくる。頭木さんには、強く共感できることなんだろう。

 

心と体の話では、
「ロボットには内臓がない」という話。

最近、「身体性」という言葉が、ロボットやAIについてよく言われている。身体が無いと、世界をちゃんと認識できない、って話。でも、いわゆる入れ物としての体だけでなく、「内臓」はどうなんだ?って。

ロボットに内臓がなくて、人間には内臓がある。人間らしさは内臓にあるんじゃないのか?!
と、斬新な!!!

ロボットに「ココロ」を持たせるなら内臓が必要、って!!

 

また、ジキル&ハイドのように、ひとりの人間がいくつもの心を持つことがある。あるいは、映画インサイド・ヘッドまで、引用されている。ライリーの頭の中には、ヨロコビ、カナシミ、ビビリ、イカリ、ムカムカと5人もの感情が脳内会議をしている。

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だれもが、相手によって、その時によって、違う自分になることがある。

お腹がすいたり、眠かったりすると、、、不機嫌になるとか、、ね。赤ちゃんだけでなく、オトナだって意外とそうじゃないか?あれ?私だけか?

 

また、5章の話は、「食べる」を共有できないと、社会でのけ者にされてしまう、、、という怖ろしい経験が語られる。以前の本でも書いていたけれど、

「食べないことは受け入れないこと」なのだ。。。

なんでも食べられる人には、気が付かない「非寛容」。

あるいは、「食べないことは人と人を断ち切る」とまで言っている。

 

「俺の酒が飲めないのか」的に、「おいしいから食べてみろ」と強要する人。。。すすめている方は、本当に美味しいからそのおいしさを共有したいと思っていても、食べられない人にとっては拷問だ・・・。

頭木さんは、これを「共食圧力」と呼んでいる。同調圧力の一種か。怖い。頭木さんは、会食でみんなと同じ食事がとれないことで、仕事すら失った、、、と。

「少しだけでもどうです?」
「一箸だけ」
「少しくらい大丈夫なんじゃないですか?」

繰り返される共食圧力。
断り続けたら、仕事がなくなった、、、と。一度ではなく、何度もあった、と。

 

” これは私にとって 全く 想定外だった。
食べられないことで、 自分が困るのは分かっていた。
でも、 まさか 他人がそれを不快に感じたり、 そのせいで仕事がなくなったり、 社会生活から締め出されることになろう とは、 思ってもみなかった”

でも、実際、、、そうだったのだ。

 

「なんだよ、あいつは」
「場の雰囲気を壊すなよ」
と、、、思われて、締め出されたのかもしれない、と。

生きづらさを感じないものは、何にも気づかず、何も考えず、誰かを傷つけているかもしれない・・・。その可能性は、健康だったころの自分を省みて、頭木さんが言っている。

 

安部公房『都市への回路』からの言葉が、印象深い。

” 現実の社会関係の中では、 必ず 多数派が強者なんだ。
平均化され、体制の中に組み込まれやすいものが むしろ 強者であって、 はみ出し者は弱者とみなされる。”

そうかもしれない。

 

最後に、本書で紹介された作品のリストがある。どれも、気になるなぁ。。。
夏目漱石の『こころ』は、じつは、からだの小説でもある、と言っている。体についてどんな風に描写されているかにも気をつけながら読んでみてほしい、と。

そんな風に読んだことなかったな。今度、読み返してみよう。

 

最後まで読んで、ようやく気が付いた。これは、田中真知さんの『風をとおすレッスン』と同じシリーズだった。

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そして、シリーズ第一冊が本書だったのだ。
なるほど。
いいシリーズだと思う。
他も、よんでみようかな、という気になる。