『伝記を読もう 18 南方熊楠』by 新藤悦子

伝記を読もう 18 南方熊楠
神羅万象の探求者
新藤悦子

あかね書房
2019年3月25日 初版

 

南方熊楠(みなかたくまぐす)は、日本の伝統や自然を守ろうといった 話の中でよく出てくる名前。でも実際にはどんな人なのかよく知らなかった。自然科学の探求者、という印象だけをもっていた。 それが 先日、熊野に旅行にいったときに、大門坂から那智大社に向かう途中、南方熊楠が3年間滞在した大阪屋旅館」という立て看板があって、おやって、、、気になった。

megureca.hatenablog.com

ちょうど、図書館でウロウロしていたら、見つけたのが本書。


「森羅万象の探求者」とある。伝記になっているくらいの人なのだから、それは、すごいひとなのだろう。

ということで、南方熊楠について勉強してみた。だいたい、なまえだか苗字だか、よくわからない名前・・・。南方(みなかた)が苗字で、熊楠(くまぐす)が名前。

 

表紙の裏には、
”どれほど能力があっても、人生の時間は限られています。でも熊楠はそんな風に考えませんでした。 関心にはキリがなく、興味は広がり、謎の答えを探し求め続けました。”と。

 

はじめにでは、
南方熊楠 を一言で紹介するのは大変です。 肩書きだけでも博物学者、 生物学者民俗学者、と並びます。 それだけにとどまらず、 宗教や 夢についても研究し、 エコロジー という言葉も日本に初めて紹介しました。”とある。

 

そして、
”大学は中退、 就職をしたこともなかったのに、世界的に有名な科学雑誌『ネイチャー』に掲載された論文は 51本もあります。”と。

 

え~~~!!知らなかった。ネイチャーといえば、科学者ならそこに論文が乗るというのはめっちゃ名誉なことなのに、それが51本って!!!そんなにすごいひとだったのか。。。。

アメリカやイギリスにわたって、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語まで話せるようになってしまう。でも、どこかに所属していたというよりは、放浪の科学者生活をしていた。それを支えてくれていたのは、実家からの仕送りだった。でも、海外を放浪している間に両親は亡くなり、弟が支援してくれるようになるけれど、帰国してみると故郷の親戚からは厄介もの扱いされてしまう。それはそうだ。いい年して、実家のお金を頼りに好き勝手しているんだから、、、。

 

生まれは、1867年、現在の和歌山市。六人兄弟の三番目。小学生になるとすぐに本のとりこになって、8歳のときには『和漢三才図絵』を借りて、3年がかりですべてを書き写した。12歳で和歌山中学校に入学、そこでであった鳥山啓(ひらく)先生の影響をうけて、博物学にのめり込む。そして、西洋の書物も読むようになり、中学を卒業すると、もっともっと外の世界をみたいといって東京にでる。

東京では、神田の共立学校に入学。ここは、大学予備門(現在のの東京大学教養学部)にはいるための準備校。同じクラスには、のちに小説家となる幸田露伴がいた。ついでに、夏目漱石正岡子規秋山真之なども同窓生。

 

そして、後に熊楠はアメリカをめざす。20歳で横浜から船でアメリカへ向かう。それから、自然科学を学びたいと、あちこちの大学をさまよい、植物学者、他の研究者との文通をはじめる。新種の菌類をもとめて、フロリダからキューバへ。キューバでは、なぜかサーカス団と一緒に行動することに。政治的にも不安定だったキューバで身の安全を確保しておくのには、どこかの団体員として行動したほうが安全だったから。そこで、大学とか企業をえらばないところが熊楠らしい。

 

そのころから、ネイチャーへの論文投稿も始まる。そして、ついにはイギリスにわたることに。ロンドン大学総長のディキンスにも懇意にしてもらい、色々と支援してもらう。ロンドンでは、後に中国革命の父とよばれる孫文とも仲良しに。

 

33歳で、日本にもどった熊楠は、故郷の和歌山にもどるけれど、既に両親は亡くなっていて、実家は弟がついでいた。弟がせっせとしおくりしてくれていたから、熊楠は海外で好きな研究に没頭できたのだ。帰国した兄のボロボロすがたをみた弟の常楠(つねぐす)は、奥さんや近所の目を気にして、熊楠を実家にはつれてかえらず、和歌山のお寺に住むことをすすめる。

弟以外の親族には、まったく歓迎されない熊楠だったけれど、日本に亡命中だった孫文が和歌山まで熊楠を訊ねてやってくる。常楠はそのことで兄をちょっとみなおすのだった。革命の英雄が、兄を訪ねてやってくるなんて!

 

常楠は、実家で南方酒造を営んでいたが、その勝浦支店を兄に任せようと考える。そうでもしなければ、兄への仕送りをこれ以上続けるのが他の親族の反対でむずかしかったから。

で、熊楠は、勝浦へいくことになる。そして、熊野の原生林の森で、ますます新種の菌類、粘菌などの発見にのめりこんでいく。そう、私が那智で目にした看板は、この時に熊楠が3年を過ごした場所だったのだ!!!

行く前に、しっていたら、もうちょっと奥まで探検してみたのに・・・。

 

那智ですごした3年間は、ひたすら自然と向きあい、孤独と向き合う時間でもあった。いったん、その孤独から抜け出すためにも、熊楠は紀伊半島南部の西海岸、田辺にうつる。熊野古道の西側のスタート地点だ。田辺では、中学時代の同級生、喜多幅武三郎がいたこともあり、熊楠はそこに家を借りて住み始める。

久しぶりに、友人が近くにいることのうれしさからか、毎晩のように喜多幅とお酒を飲み歩くようになる熊楠。心配した喜多幅は、熊楠に結婚を勧める。
そして、闘鶏神社の神官の娘、田村松枝と結婚。長男、長女に恵まれ、いっそう研究にはげみ、ネイチャーへの投稿もつづけた。長女は、熊楠の自然観察のスケッチを手伝うようになっていた。

 

本書には、熊楠がつくったキノコ図鑑の写真が引用されているのだけれど、すべて手書き。。。文字は英語?横文字だ。すごい。

 

そして、熊楠の名前を世に知らしめたのが、「鎮守の森を守る」という活動。

 

1906年、明治政府は、神社合祀令を公布。神社合祀令とは、1町村1社、一つの行政区に一つを原則に、神社を整理統合する法令。小さな神社や祠は瞬く間に統廃合されて、失われていく。熊楠はこれに猛反対!!!

 

「鎮守の森がどれほどたくさんの生物を育んできたと思っているんだ。木を切ってしまったらどれほどの生命が消えてしまうか。せっかく 発見した新種の粘菌も見ることができなくなってしまうじゃないか!」と。

 

民俗学者柳田国男とも協力して、鎮守の森を守る活動を広げる。

1918年、神社合祀令は廃止される。

こうして、多くの神社が統合され、鎮守の森が伐採されてしまったけれど、熊楠は、田辺湾に浮かぶ「神島(かしま)」を守ることを達成する。そして後に熊楠は、「神島」に昭和天皇をむかえることになる。生物学が専門だった昭和天皇昭和天皇をむかえた熊楠は、キャラメル箱に粘菌標本をつめて献上した。天皇は大いにお喜びになった。

 

先日読んだ、『日本の歪み』のなかで、なぜ昭和天皇があれほど生物学に夢中になったのかという話で、養老先生が「そうでもないと、やってられなかったんでしょう」といっていた。戦争、敗戦、、、自然というのは、生物というのは何もかもを忘れて没頭させてくれる優しさ?強さ?があるのだ。ちょっと、昭和天皇と熊楠のキャラがかぶって、なるほどなぁ、、、とおもってしまった。

megureca.hatenablog.com

 

1941年11月末、熊楠は自宅で倒れ、そのまま床に臥すようになる。その年の3月には友人の喜多幅を亡くし、元気をなくしていたのだった。そして、12月29日には息を引き取る。最期は、枕元にはべる家族や友人をいたわって、

「これから ぐっすり眠るから 誰も触らないでくれ。 頭からすっぽりと着物をかけてくれ。 私は眠るからお前たちもおやすみ。」といって、奥さんと子供の名前をよんだそうだ。

 

熊楠の遺品は、奥さんと娘の文枝によって、大切に保管され続けた。文枝がなくなったあと、遺品は 田辺市に遺贈され、2006年に南方熊楠顕彰館」が開館。

 

なんとも、波乱万丈な人生。

ひたすら、まっすぐに生きた。そんな、ひとだったのだ。時には、その頑固さで人と対立しても、自分が正しいと思う信念をまげなかった。だから、鎮守の森は守られた。

また、手紙も日記もたくさん書いた。書いて書いて書きまくることで、頭の整理をしていたのだろう、って。すごく、共感。

 

そうか、そういうひとだったんだ。
奇才のひと、南方熊楠
50を過ぎてはじめて知った。 

 

熊楠は、その一生の間にずっと新種の発見を続けた。何十年と続けた。ちょっと、カタリンさんとも共通点を感じる。

megureca.hatenablog.com

 

続ける才能なのか、続けたから才能なのか。

いずれにしても、本人がそれに夢中だったってこと。

 

継続は力なり。

好きこそものの上手なれ。か。

 

やっぱり、私は、こういう人物に惹かれる。

ちょっと偏屈でも、ひたすら自分の興味探求を続ける人。

没頭できることがあるというのは、幸せなことだし、

没頭できる環境であるといのうが、さらに幸せなことだと思う。

 

自然科学研究、ばんざーーい!