マンガ日本の歴史 18
建武新政から室町幕府の成立へ
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年4月5日 初版印刷
1991年4月20日 初版発行
『マンガ日本の歴史 17 蒙古襲来と海外交流』の続き。17巻では、日蓮の予告したとおり鎌倉時代の一大事、元寇(文永の役と弘安の役)がおこり、執権時貞の得宗先生の時代について。18巻では、後醍醐天皇がとうとう倒幕へと立ち上がる。
目次
序章 都鄙名誉の悪党
第一章 出口なき 幕府
第二章 当今御謀叛
第三章 足利尊氏、起つ!
第四章 建武新政の崩壊
18巻は、13世紀末、鎌倉時代末期、悪党の登場から始まる。悪党とは、いわゆる狼藉者の悪党から始まったが、北条専制がすすむにつれて、幕府への反発から、権力機構の末端の御家人たちまでもが、悪党化していった。その出身は、荘園の荘官や地頭、名主、農民、狩猟民、漁民、僧、神人など様々だった。幕府は、しばしば悪党鎮圧令をだしたけれど、その勢いはましていった。
1293年4月13日正午、鎌倉一帯を大地震が襲う。大地震の余燼がさめやらぬ22日、北条貞時は、自分の乳父であったことから内管領に登用していた平頼綱に対して「成敗せよ」とのおふれをだして、平親子を攻撃。平禅門の乱。
権力を独り占めしたくなった貞時の暴挙、だろうか。平親子は自害して果ててしまう。
貞時は、次に、平頼綱の甥である長崎高綱を近臣に取り立てる。が、合議制を辞めるなど、独裁体制を発展させる。北条家のやりたい放題。貞時が亡くなると、次に執権になったのは北条高時。政治に無関心で、闘犬や田楽にうつつをぬかしていた高時に対して、長崎高綱が力を持ち始めていた。
まさに、『太平記』の時代の始まり。
面白くないのは、それなりに才覚のあった朝廷、後醍醐天皇(96代、御宇多天皇(91代)の子、大覚寺統)。乳父である吉田定房に、「今の世をどう見る?」と武家のタガが緩んでいることを嘆き、帝は何のためにいるのか、、というのだった。
この時代、既に、院・天皇・皇太子の後継ぎ問題は、大覚寺統と持明院統の二派で激しく争っていた。後嵯峨上皇(88代)が家督相続を決めないままに歿してしまったのが事の始まり。持明院統(後深草天皇(89代)の系)と大覚寺統(亀山天皇(90代)の系)で、争い合った。そして、両統で交替で帝位につくという和解案がだされる。
1321年、後醍醐天皇の親政のときがやってくる。宋学の理念に基づき、王権の絶対化を示すためあらゆることを綸旨として発するようになる。また、家格にこだわらずに有能な人材を登用。 検非違使の別当に北畠親房を任命、日野俊基を蔵人にとりたてた。
1324年、後醍醐天皇は、日野俊基に各地の情勢を探りにいかせ、倒幕の機会を探り始める。
ここからは、吉川英治の『私本太平記』の内容とかぶる。
後醍醐天皇の元に、朝廷を支持し、反幕の気炎をあげる人びとが集まるようになる。ところが、幕府に倒幕の動きがばれて、日野資朝(すけとも)と日野俊基は逮捕されてしまう。正中の変。一旦、後醍醐天皇も倒幕の動きをしずめる。
だが、密教へ傾倒する後醍醐天皇は、さらに倒幕の思いを高める。
1331年8月24日 後醍醐天皇、とうとう京を脱出して、山背の笠置山で兵をあげる。
それに対して、足利高氏が幕府の命で笠置攻めのために鎌倉を出発。一方で、朝廷側は、悪党と呼ばれていた楠木正成を仲間に引き込み、楠木正成は赤坂で挙兵。
しかし、赤坂も笠置山も幕府軍に攻められて陥落。楠木正成は、護良親王(もりよし)を連れて吉野方面に脱出。
1332年3月、後醍醐天皇は、六波羅に拘束され、隠岐流しとなる。日野資朝、日野俊基は処刑。そして、皇統は、持明院統にうつり、光厳天皇となるが、大覚寺統の倒幕の火の手はおさまることはなく、広がっていった。
と、ここで、山川出版の教科書を参照すると、光厳天皇から数代、北朝(持明院統)の系には天皇の代が記されていない。96代の後醍醐天皇の後、97代は後村上天皇となっている。
大塔宮・護良親王は、父の後醍醐天皇を島流しにするとはけしからん!と倒幕への強い思いを高める。そして、1332年11月、吉野で兵をあげる。楠木正成は呼応して河内の千早城に拠った。
1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出!伯耆(ほうき)の名和長年(なわながとし)の支援を受けて、船上山(せんじょうさん)に立てこもり、北条追放の綸旨を発した。
あちこちで、幕府vs朝廷の戦い勃発。
足利高氏は、北条高時に朝廷攻めに出立するように言いわれ、かつ、妻と子供を人質に鎌倉に置いていくようにといわれた。かねてより北条高時のやり方に疑問を持っていた高氏は、とうとう、幕府を見限ることに。
朝廷倒しにいくとみせかけて出立し、途中で反旗を翻す。反幕の武士たちは、続々と高氏のもとに馳せ参じ、幕府を朝敵として一気に幕府を攻め込む。新田義貞も倒幕に加わり、鎌倉では千寿王(人質として鎌倉に遺された高氏の嫡子)も加わり、幕府を攻撃!
北条高時は、これまでとみて、一族800余人と共に、東勝寺で自害。北条氏と鎌倉幕府は滅亡した。
5月、後醍醐天皇はついに京都に戻る。高氏は、朝廷ではじめて後醍醐天皇と対面、鎮守将軍となる。
そして、後醍醐天皇の「建武の新政」が始まる。ところが、この新政は、足利氏などの力を借りた倒幕の結果だったのにもかかわらず、武家をないがしろにしたものだった。
高氏もだまっていられない、、と、後醍醐天皇のつくった「雑訴決断所」に高師直(こうのもろなお)ら腹心の家人を奉行として送り込む。
高氏のご機嫌をとりたい後醍醐天皇は、自分の諱(いみな)、尊治(たかはる)から一字を授けると言って、「尊氏」と名乗るようにと伝える。で、教科書にある「足利尊氏」の誕生。
後醍醐天皇の隠岐流しの時に一緒に隠岐にいっていた阿野廉子(あのれんし)が、一身に後醍醐天皇の寵愛をうけるようになり、新政の影の権力者となっていく。何でもかんでも綸旨としてだすので、人びとは迷走する建武新政を風刺するようになる。新政は行き詰まりの気配。。。
尊氏が活躍するのは面白くない護良親王だったが、その反発する怪しい動きが尊氏にばれ、鎌倉に幽閉されてしまう。また、北条の残党も尊氏の活躍は面白くない。鎌倉では、高時の遺児北条時行が1335年に攻撃を仕掛け、なんと、幽閉されていた護良親王を殺害。
鎌倉を奪われた尊氏は、出陣を決意、征夷大将軍と総追捕使を後醍醐天皇に要求するが断られる。尊氏は独断で兵を率いて鎌倉へ向かう。
尊氏が時行を責め、鎌倉奪還。後醍醐天皇に京都に戻るように言われたが、尊氏はそのまま鎌倉を安定させるためだといって、鎌倉に居座る。
今度は後醍醐天皇が、尊氏征伐だといって新田義貞を鎌倉に向かわせる。尊氏軍は、箱根で義貞軍を破り、さらに西へ。湊川で楠木正成と対決。
勝利をおさめた尊氏軍は、後醍醐天皇を花山院に幽閉し、京都で幕府をたてる。室町幕府の始まり!
が、後醍醐天皇は、再び幽閉先から脱出、吉野に入る。
室町幕府、そしてこの後56年に及ぶ南北朝動乱の時代は、こうして始まった。
なんて、わかりにくい時代だと思っていたけれど、やはり吉川英治の『私本太平記』が面白かったので、このあたりはようやく頭に入ってきた。
戦国時代より登場人物も少ないし、実はわかりやすいストーリーともいえる。それにしても、昔の人はよく戦っていたんだねぇ、、、。どこにそれだけ兵がいたんだろうか。。。と思ってしまう。
まだまだ続く日本の歴史。。。