『カフーを待ちわびて 』 by 原田マハ

カフーを待ちわびて  Waiting for good news
原田マハ
宝島社
2006年4月3日 第一刷発行

 

『フーテンのマハ』をよんで、本書がマハさんのデビュー作であるということを今更ながら知った。なので、図書館で借りて、読んでみた。単行本。映画にもなったらしい。

観てないけど。

megureca.hatenablog.com

ベケットの「ゴドーを待ちながら」をもじったタイトルで、内容もそういう感じかと思ったら、全然違った。超恋愛小説だ。2006年、第1回日本ラブストーリー大賞を受賞というから、本当に、LOVEストーリーだ。あまりにも、LOVEがあふれている。男女の愛、親子の愛、友情、故郷への愛。。。

待つ、という意味ではテーマは同じかもしれない。

そして、人生は待っているだけではいけないのだ、ということも。私には同じメッセージに感じた。

 

主人公は、ずっと待っていた。そして出会えたもの、永遠に出会えないもの。。。人生には、永遠に失ってしまうものもある。でも待つだけでなく、自分で追いかけないといけないものもある。そういう時もある。そう、本当に大事なものは待っているだけじゃダメなんだ。追いかけないと。自分で。
そんなお話。

ただの恋愛小説と思うなかれ。深い。

待っているだけのことにつかれた心を癒してくれる。そんな感じ。

 

じんわりと温かく、やさしく、悲しく、一気読み。
前半は、ワクワク、ドキドキで読み進み、後半になると一気に切なく、悲しく。ポロポロ涙がこぼれる。。。鼻水をかみながら一気読み。
これも、自宅で読んでいてよかった。。。
原田さん、泣かせてくれるなぁ。

 

紹介文を引用すると、
「嫁に来ないか。幸せにします」
「絵馬の言葉が本当なら、私をお嫁さんにしてください」
から始まるスピリチュアルなほどピュアなラブストーリー。
ゆるやかな時間が流れる、沖縄の小さな島。一枚の絵馬と一通の手紙から始まる、明青(あきお)と幸(さち)の出会い。偶然に見えた二人の出会いは、思いも寄らない運命的な愛の結末へ。
第1回「日本ラブストーリー大賞」大賞受賞作品。”


タイトルになっているカフーというのは、与那喜島の方言で、果報、いい知らせ、幸せ、ということ。与那喜島は、フィクションで、実際のモデルは伊是名島だったようだ。
『フーテンのマハ』での原田さん自身の話によれば、沖縄の離島だ。そこで飼い主が海に向かって投げるおもちゃを、何度も何度も、くり返し取りに行っては戻ってくる犬をみて、おもわず、「すごいですね」と飼い主の男性に声をかけたという逸話がでてくる。そして、そのときのことが、この『カフーを待ちわびて』を書くきっかけになったと。 

沖縄の離島が物語の舞台。本の表紙も、沖縄の海なのかな。

カフーを待ちながら、というのは、果報を待ちながら、ということ。お話の中では、主人公友寄明青(ともよせあきお)がかっているラブラドール犬の名前もカフー
そして、明青がお世話になっている近所のおばぁが夕餉の後にお祈りする言葉は、カフー アラシミソーリ」幸せでありますように

カフー アラシミソーリ」 この言葉を伝えたい、そういう思いを描きたい、そのために紡ぎ出されたラブストーリーなのかもしれない。

 

以下ネタバレあり。
だけど、あまりにも切なく、温かい、核心のネタバレなしで。
  
主人公の明青は、愛犬のカフーと与那喜島で暮らしている。食料品から日常品までよろず商品をあつかう「友寄商店」を経営している。気ままに昼寝の時間は開店休業。店であると同時に、近所の年寄りの井戸端会議の場所でもある。
明青は、弟がいたのだが生まれてすぐに亡くなってしまう。母はそれから元気をなくしてしまった。追い打ちをかけるように、父が海難事故で亡くなる。母は、ある日明青をおいて島を出て行ってしまった。もともと島の人間ではなかった母は、姑たちとも折り合いがわるく、しだいに居場所が無いように感じ始め、出て行ってしまったのだった。
子供だった明青は、祖父母に育てられたが、その祖父母も今では亡くなってしまい、カフーと暮らしている、という訳だった。

裏には、巫女(ゆた)のおばぁが住んでいる。明青の血のつながりがあるおばぁではないが、子供の時から一緒で、いまではおばぁと一緒に夜ごはんを食べるのは日常のこと。明青にしてみれば、唯一の親族に近いような存在だった。

おばぁは、島で一番信頼されている巫女。色々な人が相談にくる。そんなおばぁがある時から頻繁に明青に「ウシラシ」(お知らせ)きたか?と聞くようになる。おばぁは、明青になにか新しい変化が起こることを予測し、それをにおわせた。おばぁは、なにがウシラシかはわからないけれど、何かが来る、と明青にいった。
半信半疑にききながら、明青は、いつものように夕餉をおばぁと食べる、カフーと散歩する、店を営業する、、そんな毎日を送っていた。

そして、ある日、明青のところに一通の手紙が届く。

「拝啓
初めてお便りを差し上げます。そして、初めてのお便りで、このような唐突なお願いをすることをどうか許してください。
遠久島の飛泡神社であなたの絵馬を拝見しました。そして、迷いながらもひとすじの希望をもってこの手紙をしたためています。
あの絵馬に書いてあったあなたの言葉が本当ならば、私をあなたのお嫁さんにしてくださいますか。
あなたにお目にかかりたく、近々お訪ねしようと決心しています。
かしこ
幸」

 

明青は、読んで固まってしまう。なんだこれは???
確かに、去年、島の仲間と北陸の孤島、遠久島にいった。絵馬も書いた。宴会の後酔っぱらった勢いで、神社にいって書いた。戯言のように。

明青は、いぶかしがりながらも、ドキドキした。これが、おばぁがいっていたウシラシか?

 

そして、幸は本当に明青のところへやってきたのだ。

なんだか訳が分からない明青だが、店のアルバイトということで幸を家にまねき、一緒に暮らし始める。本当にお嫁になるつもりでいるのか?いつまでいるのか?よくわからない、直接言葉にしないままに、あたりまえかのように二人の同居は始まる。寝室も別。ただの同居人として。
そして、おばぁの家での夕餉は三人の日課になっていく。

おばぁは、幸を明るく受け入れたわけではなかったが、頑固なおばぁはダメとも言わない。
幸は、頑固なおばぁにもひるまない。おばぁのことが好きになっていく。おばぁは優しいわけでもない。むっつりと幸を迎え入れる。ちゃんと三人分のご飯を用意して。

幸はあかるく、いつでも明青のそばにいた。いつのまにか、そばにいるのが当たり前になっていた。明青にとっては、幸は家族のような存在になっていく。しかし、いつか出て行ってしまうのかもしれない、、そんな不安もありながら、自分でも幸のことが好きなのかもよくわからない。でも、出ていってほしくないと思っている。言葉にできない明青だった。
ある日突然、出て行ってしまうのかもしれない、、、お母さんと同じように、、、。
ずっと、そんな不安を胸に抱きながらも、その想いすら自分で否定しようとする明青だった。

ある時、おばぁと明青は、お墓参りに幸を一緒に連れていく。沖縄ではお墓の前で宴会をする。ご先祖様が、間違えずに自分のお墓のところにやってきて、一緒に遊ぶためだという。
それを聞いた幸は、「幸せね、その死んだ人は」とぽつりと言った。
3人で楽しい時間を過ごした帰り道、「みんな迷わずにこれたかな?」と静かにぽつりとつぶやいた幸に、明青は、「うん、来たよ」と答える。
「わかるの?」
「うん、わかるよ」
そして、ふと幸の手は、明青の手に触れた。明青は、はっとして手をひっこめる。
幸の手は、そのまま行き場を失って、空を掴む。
しんとした空気。
幸がささやくようにいった。
「私の、あのこも?」
明青は顔をあげて幸の横顔をみた。白いほほを伝うひとすじの涙をみた。
明青は、幸が抱えている悲しみを見てしまった。


ストーリーは、明青と幸の出会いと共に、与那喜島のリゾート開発をすすめようとする島の人々、それに反対する人々との交流が重なる。

 

明青とおばぁは、数少ないリゾート開発反対派で、立ち退き拒否をしていた。しかし、最終的には島の為だと言って、反対派だった人々も立ち退きに合意し、明青とおばぁだけが反対者、という状態になる。
リゾート開発を推進しているのは、明青のもと同級生であり、友達でもある照屋俊一だった。俊一は、島をでてから不動産開発事業でめきめきと頭角を現し、本気で島を何とかしたいと思ってリゾート開発の話をもってきた。本土のエリートだ。さまざまな手をつかって、反対派の人々を合意に反転させていく。そして、とうとう、おばぁと明青の二人だけになり、、、

そんなとき、おばぁは島の人にお願いされてとある離島まで祈祷のために同行し、そこで心筋梗塞で倒れてしまう。明青は、最近体調のすぐれないおばぁを行かせたくなかったが、島人に頼まれれば断らないのがおばぁだった。

おばぁが倒れたときいた明青は、すぐに離島へ向かう。朝、些細なことでケンカした幸に、「ちょっと留守にする」と置手紙をして。


おばぁは、一命はとりとめたものの、医師によれば那覇の大きな病院で手術をうけないと、この先はわからない、ということだった。おばぁは、手術を拒否し、しばらくその離島で入院することになる。いったん与那喜島にもどることにした明青は、幸がどうしているか、、、心配で心配でしかたがなかった。電話してもつながらないし、もしも幸がいなくなていたらどうしよう、、、。
でも、幸は、待っていてくれた。

いつものように、笑顔で。

安心する明青。
ぜったいに、幸を守ろう。そう、心に誓う。

そして、幸は、自分が入院しているおぱぁの世話にいくといって、おばぁのところへいく。
こんどは、明青が一人で島で留守番だ。

一人になった明青は、こんど幸がもどってきたら、ちゃんと幸をつかまえよう。幸に結婚を申し込もうと決心する。そして、幸とおばぁが島へ戻ってくるのを待った。

 

そんな中、ある同級生に、「幸は、俊一が明青がリゾート開発推進に合意するように仕込んだ、俊一の女だ」、と聞かされる。
放心する明青。

 

おばぁと島にもどってきた幸に、「僕は、他の人と結婚することにしたんだ」とウソを告げる明青。
「幸せになってね」といって去っていく幸。。。
すれ違う二人。

俊一は、確かに、女を送り込んだ。でもそれは、幸ではなかったのだが、、、

 

明青が、ほんとうのことに気が付いたときには、すでに幸は島をさっていた。だれも誰かをだまそうとしたわけではなく、すれ違いのすれ違いだった。なのに、幸を信じられなかった自分を責める明青。

幸が使っていた寝室に、一人ぽつねんと座る明青。そして、幸の置手紙を見つける。
そこには、幸がなぜ明青のところに来たのか、本当のことが書かれていた。

カフー アラシミソーリ」の結びと共に。
幸の告白、それは、明青の想像をはるかに越えたことだった。

 

物語の最後、全てを知った明青は、幸を探しに旅に出る。

こんどは、待ちわびるのではなく、自分で探しにいったのだ。

おばぁの遺言をまもって。

「向こうから来るのをまってばかりではいかん」との。

 

ネタバレは、ここまで。

 

もっともっとたくさんのことが描かれている。

幸と明青の縁が何だったのか、ストーリーの最後に幸からの置手紙で明かされる。

それは、たぶん多くの読者もびっくり!の内容だと思う。

おばぁは、それを知っていた。そして、明青にちゃんと幸をつかまえろと言ったのだった。

 

愛する人を追いかける幸せ、それを描きたくてこのラブストーリーを書いたのだろうか?

そして、心のどこかで、母親のことをまっていた明青。

 

原田さんの物語には、いつも、家族の愛がある。

兄妹だったり、親子だったり、、、、。

だから、じんわり、温かい。

やさしい物語。

 

やっぱり、原田さんの世界いいなぁ。

デビュー作っていうけど、なぜこの時に私は原田さんの本と出合わなかったのだろう、と思ったら、2006年、ちょうど私は日本にいない頃だった。

もう、どれだけの作品を書かれたのかわからないけれど、原田さんの本、全部読みたくなった。

愛にあふれていて、私も頑張ろう、という気持ちにさせてくれる。

 

本は、心の栄養剤。

読書は楽しい。

 

カフーを待ちわびて』

 

 

 

 

『猫に学ぶ  いかに良く生きるか 』 by ジョン・グレイ

猫に学ぶ  いかに良く生きるか
ジョン・グレイ 著
鈴木晶 訳
みすず書房
2021年11月1日 第1刷発行

 

何かの書評でみて、面白そう、と思って図書館で予約していた。結構、長いこと待った。
著者のこともよく知らずに、”猫”に惹かれて借りたのだが、なんと、本文中に養老孟司さんのコメントがでてきた。そして、裏表紙の説明にも引用されていた。

 

裏表紙には、
”私が猫と遊んでいるとき、私が猫を相手に暇つぶしをしているのか、猫が私を相手に暇つぶしをしてるのか、私にはわからない。」これはモンテーニュの言葉。
 政治哲学者ジョン・グレイは本書で、何世紀にも渡る哲学や、コレットハイスミス、谷崎なの小説を渉猟し、人が猫にどう反応し行動するかを定めてきた複雑で緻密なつながりを探究している。
 その核心にあるのは猫への感謝の念だ。なぜなら、どんな動物にもまして猫は、人間という孤独な存在にも備わっている動物本能を感じさせてくれるからである。

しばしば数十億円単位の実験室を持っている自然科学者から見ると、哲学者は自分の脳ミソしか持たない典型的なプロレタリアである。その貧乏人に猫という小さな道具を与えてやったら、立派な哲学者と人生論が生まれた。人生の重荷を感じている人には、本書を読むことが救いにはならなくても、最低〈気晴らし〉にはなると思う。猫好きにとっては面白い上に感動的でもあり、つい読み切ってしまう。」養老孟司
と。

 

 猫好きの、猫愛の話かと思ったら、ちがった。確かに、猫愛がある。でも、哲学の本だった。ショーペンハウアースピノザモンテーニュヴィトゲンシュタインアリストテレスムハンマド。。。哲学に宗教にと、なかなか読み応えのある一冊。ゆるいタイトルだと思ったけど、中身は、ゆるくもあり、深くもあり、思わず読み込んでしまう。そんな一冊。

 

目次
1 猫と哲学
2 猫はどうして必死に幸福を追求しないのか
3 猫の倫理
4 人間の愛 vs 猫の愛
5 時間、死、そして猫の魂
6 猫と人生の意味

 

猫好きだった過去の偉人たちの話が出てきたり、小説のなかで大きなポジションをもつ猫を描いた作家がでてきたり、話の中心に猫がいる。

 

著者のジョン・グレイは、1948年生まれ。イギリスの政治哲学者。オックスフォード大学で博士号取得後、オックスフォード大学、ハーヴァード大学、イェール大学その他で教鞭をとり、2008年に引退するまでロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。

著書に、『グローバリズムという幻想』などがある。

 

著者は、人間だけの問題として、「死への恐怖」を指摘する。動物は、犬も猫も、牛も馬も、「死」を想像して恐れたりしない。人間だけが想像して恐れる。だから、哲学や宗教が必要になり、ギリシャの時代から今に至るまで、宗教論、哲学論が盛んで終わりはこない。
そして、死とともに訪れる忘却は、人間であることの特権の一つであるとも。

そんな人を猫と比較しつつ、哲学が展開されていくのが本書。

最後には、いかに良く生きるか、猫に学ぶヒント10が記載されている。猫的生き方?指南書、って感じだ。ヒント全部やったら、猫になっちゃうよ、、、って感じ。

 

だれもが、猫的生き方に共感するわけではないかもしれないけれど、うん、たしかに、この本は気晴らしになる。哲学書だけれど、まぁ、難しく考えなくていいんだな、という気になる。

 

猫は、ボスやリーダーを生み出さない。いかなる社会集団をも形成することは無い。だから飼い猫も、飼い主に服従するわけではない。それは、ペットとしての犬との大きな違い。犬はリーダーを必要とするから、飼い主がリーダーになる。
犬好きと猫好き。相手が服従するかしないか。大きな違いだ。本書の中では、企業の経営者などは犬、大型犬を飼う人が多く、哲学者や作家は猫を飼う人が多い、、と言っている。
確かになぁ。。。

私は、犬も猫も飼ったことがないから、本当にどっちが好き?と言われても答えがないけれど、どっちかというと猫の気がする。

 

本書によれば、猫というのは、中世においては人間に虐待されてきた、というのだ。魔女狩りのあった時代、猫も魔女と一緒に殺害されたそうだ。よくわからないのに邪悪な存在として魔女され、殺されていった女性たち。猫も同様に、よくわからないけれど憎悪の対象となって虐殺されることがあったという。そして、著者は、本質的には羨望の裏返しが魔女狩りや虐殺になったのでは、という。かつ、虐殺をカーニバルとしていた中世においては、人間にとってはそれも一つの気晴らしだったのだ、、、と。動物の虐待が気晴らし、、、そんな恐ろしい時代もあったのだ。もっとも、魔女狩りはもっと恐ろしいけれど。史実である。

人は、つねに気晴らしを求めて生きている、、、ということか。

パスカルは、「気晴らしは人間にしか見られない特質」といっている。
動物と人間の違いは、道具とつくるとか言葉をしゃべるとかなんかではなく、「気晴らし」をすることだ、と。道具ならチンパンジーやカラスも使う。言葉なら、イルカだってコミュニケーションする。求愛のさえずりもある。

 

西洋の主流の伝統で、人間が他の動物より地位が高いのは、意識的な思考ができるからとされていた。アリストテレスは、「良き人生」とは宇宙について熟考することといい、キリスト教は神を愛する事、と説いた。どちらも、意識することを説いている。一方で、老子荘子の説いた道教では、意識しないことを説く。禅も無を説く。

 

そうか、意識する世界、意識しない世界。意識しない世界って、東洋思想の世界だと思われているんだ。。。と、あらためて気づく。無って、意識しないってことだ。それって、西洋とは全く違うんだ、、、と、今更、気が付く。。。。

 

猫の話から、さまざまな哲学者の思想の話に展開する。


スピノザは、プラトンのいう「人生は意識的になればなるほど完璧に近づく」を支持した。でも、実際のスピノザの考えは、道教に近い。スピノザは、「異端審問」による迫害と強制的改宗を避けるためにイベリア半島から逃れたユダヤ人の家系だ。伝統的キリスト教ユダヤ教とは異なる倫理で人生を考えた。すると、意識しないことを是とする禅の世界に近くなった。それは、猫の世界に近い。
ニーチェは、そのスピノザを崇拝した。
ニーチェのいう権力への意思は、ショーペンハウアーのいう普遍的な生きる意志の裏返し。ショーペンハウアーは、生への意思がもたらす苦しみを嘆き、ニーチェは意思がもたらす闘争を礼讃した。
ニーチェより前に、トマス・ホッブスは、人間には絶えず権力欲があるといった。
そして、この権力への欲望は、他の人々への恐怖に起因する、と。

スピノザは、人間はもしじゅうぶんに理性的であるならば、死について全く考えないでいることもできる、とした。
自由な人は死について考えることが一番少ない。彼の知恵は死ではなく生についての思索である。」と。自由な人は、死の恐怖に左右されない人。死の恐怖に左右されない、つまりは、猫、か。


そして、利他主義という言葉は、近代の発想だという著者の言葉にはっとした。「利他主義と良い人生の結びつきは自明のようでいて、新しい。古代ギリシャにはない。」と。「他」のかわりに、「神」がいた、ということなんだろう。

 

たしかに、禅の世界でも、利他を教えるわけではない。あくまでも「自分のままでいること」そのためには、自我をもとめるのではなく、自我を消して、真我をもとめる。そのために「無」になれ、と言われる。無になって真我を求める。真我はつくるのではなくて、もともと生まれた時からあるもの。日常ではその真我を失いがちだから無になって見つめなおせ、というのが禅の教えだろう。


自分個人の本性を実現するという倫理は、自己を創造するという考えとは違う。人間がみずから自己だと思っているものは、じつは社会と記憶がつくりあげた物だから。自我は作り上げられた物ということ。
人は、幼少期から自分のイメージを形成する。その自己イメージを保存・強化することで幸福を追求する。でも、そのイメージが現実と乖離してくると、、、そこに、自己への不満が発生する。自我が自分を苦しめる。


人間以外の動物は、自己イメージのような幻影をもたないのだから、自己への不満も持たない。彼等にとっては、体がもっている生命力そのものが自己なのだ。

猫は、利他を良き生活としているわけではない。猫にとっては、彼らが感じ、嗅ぎ取ったモノそのもが良き人生。猫生。
人も、利他が良き人生なのではない。利他を目指すのではない。気が付かずに利他であれば、その方が徳が高いのだろう、と著者は言う。なるほど。深い。利他であろうだなんて、おこがましい。まずは、自分と向き合え、ということか。

 

アリストテレスの言葉がなかなかしみる。
慎重さに欠ける人は、他のどんな美徳をもっていようとも、幸福にはなれず、何をしようと無駄に終わる。

それと同じように年じゅう怯えている猫は、良く生きることはできない
勇気は、人間の美徳であるのと同じく、猫にとっても美徳である

 

本書では、西洋だけでなく、日本人も引用している。谷崎潤一郎は、エッセー『陰翳礼讃』で「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考へる。」と書いている、と。
真の美は、創られた完璧な世界にあるのではなく、自然化や日常生活の中にあるのだと。
著者は、谷崎の『猫と庄造と二人のをんな』に他種多様な愛が何であるかを描いているという。そこは、また、猫が主役の世界だ。元夫とその新しい妻に、飼っていた猫をくれと頼む元妻。元妻への愛はなくなっても、一緒に飼っていた猫への愛はなくならない元夫。
そんな、話。

他にも、いくつか、猫が人間の男女のあいだに大きな存在感を表す物語が紹介されている。西洋でも、日本でも、猫は猫だ。猫に振り回されるのは人間だ。犬ならこういう物語はできない。


猫が教えてくれる人生哲学の一つは、「人生とは気晴らし」なのかもしれない。猫は、気晴らしなんて考えない。気晴らしを必要とするのは人間だけ。。。
あぁ、そうか。人生そのものが気晴らしだと思えば、気晴らしなのかもしれない。。。

サラリーマンを辞めてみると、気晴らしに仕事でもするか、、なんて思ったりしてる自分に気が付く今日この頃。。。仕事しなきゃダメ人間になる、、みたいな焦燥感もなくはないが、あせったり、憤ったり、よろこんだり、たのしんだり、、、すべて気晴らし、、と言ってしまえば、もともこもないけど、、、。そう思えれば、楽になることもあるかも。


そうか、だから、養老先生も、”気晴らしにはなる”、、とおっしゃる。すべてのことは気晴らし、、、。フーテンにぴったりな言葉だ。 

 

ネコに学ぶヒント10は、一言でいえば、「人生は気晴らしでもいい」ってことだ。

 

そう、たまに気晴らしに悩んだり、考えたり。

それでいい。

ってことらしい。

谷崎潤一郎が読みたくなった。

それも、気晴らし。

 

猫にはなれないけど、猫に学ぶのはおもしろい。

読書は楽しい。

 

『猫に学ぶ いかに良く生きるか』

 

『ルース・ベイダー・ギンズバーグ アメリカを変えた女性』 by ルース・ベイダー・ギンズバーグ、アマンダ・L・タイラー

ルース・ベイダー・ギンズバーグ アメリカを変えた女性
ルース・ベイダー・ギンズバーグ、アマンダ・L・タイラー 著
大林圭吾、石新智ら、計9名による訳
晶文社
2022年2月5日 初版
Justice, Justice Thou Shalt Pursue:A Life’s Work Fighting for a More Perfect Union (2021)
(正義、汝が追求すべき正義)


ルース・ベイダー・ギンズバーグ。2020年に87歳でなくなってしまったけれど、アメリカの偉大な女性の一人。2018年には『RBG 最強の85歳』でその人生が映画になった。観ようと思ってみていないのだけれど、、、。
平等のために人生をかけた女性。かっこいい。素敵。可愛い。そんな女性。

そんな彼女の最後の著書、読んでみた。彼女のロークラークをしていたアマンダ・L・タイラーとの共著。日本語版は、なんと9人の訳者。いくつもの判例や彼女の講演が掲載されているのだが、おそらく、それぞれの判例に関する法曹知識がないと、一般の読者には分かりにくいということで、注釈を充実させてくれながら完成した一冊なのだと思う。一般の人が読んでも十分に楽しめる内容だけれど、法曹界の人には本当に勉強になる一冊なのではないかと思う。様々な判例の根拠なども掲載されている。

 

表紙の裏には、
アメリカ連邦最高裁史上二人目の女性裁判官であり、2020年9月18日に87歳で亡くなるまでその任を務めた、ルース・ベイダー・ギンズバーグ。平等の実現に向けて闘う姿勢やユーモアある発言で、国中の尊敬と支持を集め、ポップカルチャーのアイコンとまでなった ”RBG ”の生涯と業績をたどる。
1970年代に弁護士として関わった性差別をめぐる三つの裁判の記録と、連邦最高裁判官として四つの判決で書いた法廷意見や反対意見を自身のセレクトで収載。また、長いキャリアと家族生活について語った最晩年の対談と三つの講演を収めた。 RPG 最後の著作。」

 

アメリカの連邦最高裁裁判官は、ひとたび就任すると終身だ。だから、RBGも80を過ぎても、コロナの期間であっても、法廷と向き合い続けた。その情熱がひしひしと伝わってくるエピソード満載。

 

RBGのことをよく知らない人のために、日本語版の本書には、 「はじめに 本書を読む前に」(大林啓吾)という項と、最後に、「日本語版刊行に際して」(水田宗子)という項がある。ここから先に読んでもいいかもしれない。

私も、RBGについて詳しいわけではないので、これらの項目も、新鮮であり、驚きをもって読んだ。へぇ、ほぉ、そうだったの!!と。

判例や反対意見については、まったくもって共感の嵐。

平等というのは、ルールを作ればよいのではない。それを実践しないと意味がないのだ。そして、社会の変化によって求められる制度も変化する

1990年代に社会人になった私にとっても、アメリカでルースが起こした様々な変化は、追い風になってきたと思う。

男女平等、古くて新しい。今でもまだまだ課題はたくさんあるとおもうけれど、一歩ずつ、少しづつでも変わっていけば、ルースの言う通り、

今日のマイノリティーは、未来のマジョリティー」に変えていけるのだ。

 

勇気のでる一冊だった。

 

RBGについて覚書。

ルースは、1933年3月15日にニューヨーク市のブルックリンで生まれた。両親は共にユダヤ系の移民であった。 母親は、ルースが高校卒業する前に他界してしまうが、共働きであり教育熱心だった母を見て育ったルースは、家庭と仕事を両立するという信念を母から教わった。

1933年といえば、ドイツではヒトラーが首相に就任し、アメリカではルーズベルトが大統領に就任した年だ。アメリカで初めて女性の参政権が認められるようになったのが1920年。1930~1950年代は、まだまだ女性や黒人が社会に進出し活躍することが求められている時代ではなかった。そんな時代背景だ。

 

ルースはコーネル大学首席で卒業したあと、学生時代に出会ったマーティンと結婚した。 マーティンはハーバード・ロースクールに通っていたが、途中で兵役に服する。その間ルースは一人で育児をし、夫が戻ってくると彼女もハーバード・ロースクールに入学した。 しかし学生時代にマーティンは癌になってしまう。ルースはロースクールに通いながらマーティンを看病し、マーティンは無事に癌を克服する。ハーバード・ロースクールを卒業したマーティンは、ニューヨークの弁護士事務所に就職することになり、ルースはコロンビア・ロースクールに移籍する。1959年、ルースはロースクールを修了した。
しかし、時代は女性が法曹界で活躍するのは、至難のことだった。就職先はなかなか見つからないし、やっとみつかっても男性より安い賃金を提示されたり。ルースは、就職活動を通じて、男女差別を痛感するとともに、平等問題に強い関心を持つようになる。

結局、弁護士事務所への就職ではなく、大学教員の道を選ぶことになる。
そして、ラトガーズ大学で10年務めたのち、1972年にコロンビア・ロースクールに移り、そこで、女性初の終身在職権を得た

ラトガーズ大学でも、男女の賃金差があった。それを学部長に何故なのかと聞いたとき、
「彼には、養わねばならない妻と二人の子供がいるんだよ。君にはニューヨークの弁護士事務所に稼ぎのいい夫がいるだろう」、と言われたという。。。そういう時代だったのだ。
同一賃金法は制定されていたものの、社気に浸透していないのが現実だった。

ルースは、大学で教える傍ら、アメリカ自由人権協会(ACLU)の女性の権利プロジェクトを主導し、性差別問題に立ち向かった。
ルースが立ち向かったのは、女性の権利擁護だけではない。男性に対する差別にも立ち向かった。
1980年、ジミー・カーター大統領によって連邦高裁裁判官に任命され、1993年、ビル・クリントン大統領によって連邦最高裁裁判官に任命された。そして、数々の歴史に残る裁判、名言をのこしてきた。


日本人にも馴染みのある有名な裁判といえば、「レッドベター事件」ではないだろうか。
2007年、グッドイヤー・タイヤ&ラバー会社に対して、レッドベター(女性)が起こした賃金差別に関する裁判だ。その詳細は、本書にも詳しいのだが、長年エリアマネージャーをしていたレッドベターが、ある日、偶然に拾った紙切れから、自分が仕事を教えた若い男性より自分の賃金が低いことに気がついた。自分がマネージャーなのに、だ。
「これまでよく働いてきたし、市民権法第7編について聞きたいことがある。裁判所に訴えよう」と決めた。彼女は、陪審員の評決の大半を得て、連邦地裁で勝った。しかし、最高裁は、差別行為から180日以内に雇用機会均等委員会に異議を申し立てなくてはいけないので、申し立ては遅すぎる、とした。
それに対して、RBGは法廷で、「本日の法廷意見の判断に反対する」と、声明をあげたのだ。賃金の差異は、長年の積み重ねで大きくなっていく。それを180日で、というのは無意味だ、と。そして、ルースは「法廷意見は女性が狡猾な方法で賃金格差の被害にあってきたことを理解していないか、それについて無関心なのではないか」と歯に衣着せずに法廷で語った。このメッセージをうけて、連邦議会が法改正に動き出す。

その後、アメリカでは、オバマ大統領が「リリィ・レッドベター公平賃金法」に署名することになる。

 

この裁判は、日本の雇用形態、賃金形態にも影響したと思う。男女雇用均等法が施行されたのちにできていた一般職・総合職という形で男女の雇用形態を変えることで、女性の賃金をさげてきた慣習をやめ始めた企業が増えたように思う。不景気で、就職氷河期の流れもあったと思うが。

法律だけあっても、いまでもあらゆる場面で機会の不平等も生じているのが現実だが、それでも、「女性の賃金は男性よりも安くていい」という当時の常識を覆した。
女性の権利獲得には、過去に沢山の人たちの闘いがあったのだ。波風立てたくないと、多くの女性が黙っているなかでも、声をあげる人はちゃんといるそういう人に、私たちは助けられているのだ。その闘いは、今でも続いていると思うけど。

 

私も、波風立てたくないと、だまってしまった一人だったな、、、とちょっと胸が痛い。それなりに、課長、部長、と昇格させてもらったのだからいっか、、、と。30年で積み重なった賃金格差は、退職金の計算で驚くほどの差になった。

いまさら、恨み言言ってもね、、、、とおもって口をとじている。

 

本書の中で何度か、RBGが法廷でも引用したサラ・グリムケの言葉がでてくる。
私は、女性を優遇するようにと言っているのではない。男性の皆さん、私たちの首を踏みつけているその足をどけてください

そして、女性保護だといって考えられてきた多くの制度は、実際には、男性の仕事を女性の競争者から保護していたのだ、と。
また、女性のための制度が、男性はうけられないという差別の解消にも働いた。

 

ルースが夫マーティンと一緒に勝訴した、モーリッツ裁判では、女性ではなく男性への差別のために闘った。モーリッツは生涯独身で母親の介護をしていて、同じ境遇の女性なら受給できたはずの介護費用について税額控除が認められなかったことに対する、裁判。

他にも、シングルマザーなら受けらえる制度を、シングルファザーではうけられないという不平等など。

あげれば、きりがない。

ちなみに、今、アメリカで大問題になっている中絶にかんする1973年ロー対ウェイド判決について、ルースは、中絶の権利の法的保障には賛成であるが、「あまりに広範囲な射程を有する法理を打ち出したため、強い反発を呼び、かえって中絶をめぐる法と政治を不安定化させてしまった」と論じている。

また、営利企業に宗教的制約を持ち出すことにも懸念を表明している。雇用主の個人的宗教観念が、従業員の権利を脅かしていはいけない、と。

日本ではちょっと、イメージしにくい案件だけれど、アメリカでの平等を語るとき、宗教を抜きには語れないというのが、よくわかる。

宗教のために、バースコントロールの権利が奪われるって、日本では考えにくい。

 

当たり前と見過ごしている日常に、たくさんの差別があふれている。それが現実だ。だからといってそれを放置するのではなく、たとえ裁判では勝てなくても、明確な「反対声明」を出す。それがRBGのRBGたるゆえんだ。


ルースをささえた夫のマーティンも、ユーモアセンスのあふれる素敵な人だったようだ。
ルースが結婚当初、義母におしえてもらった幸せな結婚の秘訣は、
時々、ちょっとだけ聞こえないふりをすることですよ」だった。
ルースは、この教えをマーティンに対して実行する必要はなく、世間に対して実行し、幸せな結婚生活を満喫していたようだ。 

 

素敵な家族だ。

 

時代を変えていくのは、最初は誰かの小さな一歩だったりする。

今日のマイノリティーは、未来のマジョリティー

そうやって、少しずつ社会は良いほうに変わっていくはず。

だから、小さな、小さなことでも、こつこつと続けてみよう。

 

ルース・ベイダー・ギンズバーグ

彼女が活躍できる場をつくった人たちもすごいと思う。

 

だれもが活躍できる「場をつくる」のが、私たち大人の責任だ。

自分ができなくても、できる人のための場を作る。

私も、作ってもらった。

その感謝を忘れず。

恩返しできないときは、恩送り!

未来に、恩を送ろう。

 

『ルース・ベイダー・ギンズバーグ アメリカを変えた女性』 

 

 

『月魚』 by  三浦しをん

月魚
三浦しをん
角川文庫
平成16年5月25日 初版発行
(平成13年5月に角川書店から刊行された単行本に書きおろしを加え文庫化したもの)

三浦しをんさんの文庫本、図書館で見かけたので借りてみた。

 

裏表紙には、
古書店『無窮堂』の若き当主、真志喜とその友人で同じ業界に身を置く瀬名垣。瀬名垣の父親は「せどり屋」と呼ばれる古書界の嫌われ者だったが、その才能を見抜いた真志喜の祖父に目をかけられたことで、幼い二人は兄弟のように育った。しかしある夏の午後に起きた事件によって二人の関係は大きく変わっていき…。透明な硝子の文体に包まれた濃密な感情。月光の中で一瞬見せる、魚の跳躍のようなきらめきを映し出した物語。” 

 

感想。

静かに押し寄せてくる、じー--ん、、、とくる物語。静かに、好きだな、って感じ。
20代の男性二人の古書をめぐる物語。そこに、今も続く日常の友情と、過去になっているのにいつまでもまとわりつく家族の歴史と、古書屋としてのプロ根性と。。。
なかなか、爽やかというのか、ちょっと寂しいような、すっきりしたような、男の友情物語で心地よい。

話の舞台は、古書屋であって、古本屋とはちょっと違うみたい。古本屋のひとつではあるけれど、骨董みたいに古書として価値のある本を見つけて、必要とする人へ仲介する仕事。読み終わった本を売りさばく、たんなるリサイクルのブックオフとはだいぶ違う。古書として価値のある本を見出すのがプロの古書屋。神田の古本屋街に行くと、たいそうな箱入りの全集みたいなのとか、半透明のパラフィン紙に包まれた本とか、置いてあった。そういうのを扱っている店。本の骨董屋さんみたいなものか。

 

著書の三浦しをんさんは、1976年生まれ。舟を編むで2012年に本屋大賞を受賞。宮崎あおいさんで、映画にもなった。アニメにもなっている。辞書を巡る優しい物語。素敵な文章を書く方だ。私は『風が強く吹いている』(2006)を読んで、勝手に男性だとおもいこんでいたのだけれど、実は女性だった。日常を美しい物語にする天才、って感じ。人と人とのつながりを、何気ない日常の描写から文字に紡ぎ出す、って感じ。

本書も、古書屋というニッチな世界の中で、普通に様々な悩みを抱えつつ生きている二人の青年が主人公。多分、二人とも主人公だ。二人の仕事にかけるさりげない本気?みたいなのが心地よい。
読み終わって、そうだ、私も仕事もちゃんとがんばろう、と思えるような、そんな物語。

読むだけではない、本の愛し方に、ハッとさせられる。

 

以下ネタバレあり。


本田真志喜は、24歳。無窮堂は、祖父の代から続く古書店で、都心からそう遠くない雑木林の農道に建つ。真志喜は、広大な敷地を有するその場所で、祖父が亡くなってから一人で、母屋と庭につながる店舗を営業している。かつては、祖父、父、自分と、男三人の世界が広がっていたその場所で、今は、一人で暮らしている。
そこに、幼なじみの瀬名垣太一、25歳が、いつものように訪ねてくる。とある家の主人が亡くなったので、数千にのぼる蔵書の処分を家族に頼まれた。そこの古書を買い付けに行くのに付き合ってくれ、ということだった。

かつては、太一の父も古書屋をやっていたので、親子そろって本田家との交流をもっていた。一方で、真志喜の父は、自分の父親、つまりは真志喜の祖父ほどに古書への審美眼をもっておらず、父は息子より孫の真志喜に期待を寄せている、と一人で疎外感を感じていた。

そして、まだ真志喜も太一も幼かった夏のある日、真志喜の父がもう処分しようとしていた廃棄本の束の中に、遊びに来ていた太一が幻の名著とも言われる一冊を見出す。「この本、頂戴!すごい本だと思う!」真志喜の祖父は、驚きを隠せない。息子が見過ごした幻の本を、小学生の太一が本能で見出した、、、。それは、真志喜の父が、自分の父親と息子を捨てて、失踪してしまうきっかけとなってしまった。それ以来、真志喜と太一は、仲良しでありつつ、お互いにこのことは口に出せない、そんなわだかまりをもったまま、関係をつづけていた。
太一は、幼かったので自分がしたことが、真志喜の父を苦しめることになるなどと思わずに「これ頂戴」だったのだが、居なくなってしまったことが真志喜を傷つけていること、また尊敬する真志喜のおじいさんも悲しんでいることを感じていた。そして、父にもう無窮堂にはいくな、といわれたものの、真志喜のことが気になって、やはりぽつりぽつりと、大人になっても通い続けていたのだった。

 

太一から買い付けに付き合うことを誘われた真志喜は、ちょっといやいやながらも、太一のために車をだして、買い付けに付き合う。いまにも止まってしまいそうなポンコツ。二人で運転を交代しながら、現地へ向かう。


そこは、山奥の立派な農家で、行ってみると若い女性がまっていた。70歳をこえた故人の妻にしては若すぎるその女性は、後妻で、思い出が残るのは辛いからまとめて処分したい、ということだった。ところが、故人の実の息子や娘が、「売りさばくなんてとんでもない、図書館に寄贈すればいい」といって、彼女に文句を言いに来る。
親族のもめごとに立ち会うことになった二人だったが、真志喜は、
本のことを思うなら、図書館への寄贈はやめておいたほうがよろしいかと」という。

図書館の蔵書になったらカバーも箱も捨てられてしまいます。無粋な印を押され書棚に並べられればまだ良いが、下手するとずっと書庫に納められたままですよ。そしてチャリティバザーの時にただも同然で売りさばかれるのです。

これをきいた息子たちは、古本として売ることに同意する。でも、真志喜と太一はどう見ても20代の若造で、「若い」ということに不信感をむき出しにしている。
そして、古本の買い付けとしては業界ルール違反となる、2社に査定をしてもらう、と言い出す。
最初は、反発した二人だったけれど、結局、親族の意向をうけいれて、自分たちが査定したのちに、地元の古書屋にきてもらって、別途査定し、高値の方に本を売るという約束を承諾する。

そして、二人は、査定を開始。また、妻からは、「一冊だけ、私のために取っておく本を選んでください」と言われる。これも、査定競争の一つとして。

太一と真志喜は、競売に勝つためではなく、真摯に査定する。そして、その本の種類や年代などから、故人と妻との一番の思い出であろう本を一冊、真志喜が選ぶ。

二人の査定結果を家族に告げる前に、地元の古書屋がやってくる。

それは、、、なんと、、、、真志喜の父親だった。
顔も忘れていた父親が、そこにいた。。。
そして、父親は、こんな競売査定をうけている二人を蔑む。自分もそうなのに、、、。

結局、真志喜の父親は、歪んだ息子への嫉妬のまま、なにも変わっていなかった。。。

真志喜の父親の査定も終わり、両者が結果を妻に書面で渡す。
「これは、私がきめることです」といって、価格を発表することなく、妻は真志喜らに本を売ることを決める。

両者の価格は明かされない。でも、妻の為に選んだ一冊の本は、両者の違いを浮き彫りにした。
真志喜の父親は、「一番高価そうな本を」と。
真志喜は、「蔵書の年代、分野からして、お二人が出会ってからの共通の趣味の本とおみうけしましたので」と。。。

しかも、真志喜は、妻が可愛がっている犬たちの名前が、選んだ本、ベケット戯曲の中の主人公の名前にゆかりがあることも、気が付いていた。

 

本を愛する気持ち、本からその背景を読み取る力、いずれも真志喜の圧勝だったということだろう。。。

 

物語は、いつもの無窮堂の場面にもどる。

そして、また、いつものように太一が真志喜を訪ねてやってくる。
「店を開こうと思って」と。
これまで、仲介屋としてしか仕事をしてこなかった太一が、
「この前の買い付けで思ったんだ。俺も卸だけじゃなくて、客ともっと接したい、と」と。
真志喜は、黙ってうなずく。
「嬉しいんだ。おまえが小売りの店をもたないのは、『無窮堂』に負い目を感じているせいなのかと、気にかかっていたから、、、、」と。

そして、真志喜は、
「いい開店祝いを思いついた。あの軽トラックをやるよ」と。
おんぼろトラック。

「店、いつからなんだ?」
「・・・来週の予定」
「手伝いに行こう。」

そんな、何気ない会話。
池の鯉が、跳ねている。
子供の時から、そばにあった庭の池。

池も、二人も、何年たっても、そこにいる。

無窮堂に穏やかな夜が訪れた。

THE END


本への愛情があふれる物語。
古本の世界の仕組みについても、ちょっと学べる。へぇぇ、ほぉぉぉ、という話も。

本のタイトルは、『月魚』だけれど、実は上記ストーリーは、そのなかの「水底の魚」という物語。ほか、「水に沈んだ私の村」、「名前のないもの」が含まれる。
あとの二つも、真志喜と太一が登場する、短編。 

 

図書館の本をかわいそうと思う真志喜の想い、わからなくない。私は図書館を愛用しているけれど、時々、装丁の一部がシールで見えなくなっていて、残念、、、と思うことがある。

確かに、本を愛する人には、本が図書館に行くとかわいそう、、と思うのかも。

でも、たくさんの人に読んでもらえる、って利点もあるんだけどね。

 

私だって、自分の書庫が持てるものなら、自分の蔵書にしたい。

でも、そんな広大なスペースはないし、、、引っ越しのたびに大量の本に追われるのも疲れるので、もう、紙の本は最低限しか持たない、、、って思っている。

 

知人に、古本は買わない、という人もいる。

著者に印税が入らないのはかわいそうだから、と。

なるほどねぇ、そういう考えもあるよね。

でも、私は図書館も使うし、古本も買う。

新刊で買っても、小説などならすぐに人にあげちゃう。

 

本との付き合い方も色々。

人生、色々。

色々あって、それでいい、ってやつだね。

 

小説もいい。

読書は、楽しい。

 

『月魚』

 

『デュルケム「自殺論」を読む』 by  宮島喬

デュルケム「自殺論」を読む
宮島喬
岩波書店 岩波セミナーブックス
1989年4月20日 第一刷発行

 

フランスの社会学者、エミール・デュルケム(1858年4月15日 - 1917年11月15日)の著書を読んでみようかと思ったのだが、難しそうなのでその解説本ともいえる本書を読んでみた。

 

1989年の本なので、なかなか、古めかしい。
図書館で借りたのだけれど、「市内一冊」というシールが貼ってあり、かつ「書庫」の本だった。古書の風情がある。。

 

目次
第一章 デュルケム  人間・社会観・問題
第二章 自殺研究の前提と方法
第三章 過去の自殺研究の批判と乗り越え
第四章 自己本位的自殺と個人主義の問題
第五章 アノミーと現代の自殺
第六章 近代型自殺とその社会心
第七章 自殺研究と逸脱論
第八章 デュルケムの現代社会批判
付録 質疑と応答


「自殺論」とはいうのだけれど、なにか特定の自殺の原因を探ろう、という本ではなく、社会の変化と自殺の増加についてデュルケムが考察した本。それをもとに、宮島さんが1987年11月18日~12月16日まで、毎週水曜日、計五回にわたって岩波市民セミナー「デュルケム社会学と現代 『自殺論』を中心として」という講義を行った。その講義記録をまとめたもの。

 

宮島さんは、1940年生まれ。東京大学大学院社会科学研究科博士課程中退。お茶の水大学教授。社会学、 特にフランス社会学専攻。というかたらしい。

『自殺論』が書かれた時代背景として、19世紀後半にヨーロッパで自殺が増大していた。それを社会の仕組みの変化とどう関係しているのか、というのを語っているデュルケムの本を、宮島さんの視点で解説している感じ。語り口調なので、ちょっと難しい課題ではあるけれど、なかなか読みやすい。

ヨーロッパの社会変化の勉強になった。

 

やはり、フランス革命の流れ、カトリックからプロテスタントへの流れが時代背景になっている。カトリックの衰退は、宗教が個人主義や人々の自由への希求と相容れないものとしていた。それと同時に、精神的、道徳的な空白状態が市民社会の中に生まれている、ということをデュルケムは問題視した。
社会の構造が変化し、個人は、より自立が求められるようになり、その一方で自殺が増えてしまった。デュルケムとしては社会改革が必要だと思って『自殺論』を書いたのだろう、というのが宮島さんの解釈。
また、1859年にダーウィンの『種の起源が発表され、進化論の中心がいわゆる自然選択であり、適者生存から優勢思想「社会ダーウィニズム」となり、社会的に人に対して優劣をつける原理となっていたことも、影響しているという。

 

人は、神が作ったのではない、ということがどれほどのパラダイムチェンジだったのか。『種の起源』、歴史的、センセーショナルな出来事だったわけだ。

 

デュルケム自身が、学生時代から親しかった友人を自殺によって失っている。ずっと、文通を続けていた友人が、明らかに自殺に見えるような死に方をした。それが、デュルケムが自殺に関心をもったきっかけだったのだろう、と書かれている。
わかる。そういう気持ち。
納得のいかない友人の死。友人を死に追いやったモノはなんであったのか?それから逃げるのではなく、とことん向き合ったのだろう。

 

デュルケムは、自殺の定義、というものを、あれこれ論じている。そして、デュルケムにとっての自殺は、
死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じ得ることを予知していた場合を全て自殺と名付ける」と。
直接、銃で頭を撃つことだけでなく、食べることを拒否して衰弱死するのも自殺の一つ、、と。

あんまり、自殺の定義なんて考えたことがなかったけれど、すごく危険な冒険も、その先に死がある確率が高いのであれば、文字通り、「自殺行為」なのかもしれない。ただ、本人はその先に死を期待していたわけではないのであれば、、、死なないと思っていたのであれば、自殺ではない。冒険死、事故死。死んでしまえば、遺書でもなければ、本人に自殺だったのか?と聴くこともできないので、自殺の研究とは、、、、難しいのだろう。

 

私には、ユダヤ教カトリックプロテスタント、それぞれの人々の生活がどのようなものであったのかは、よくわからないが、本書を読むと教会を大事にする人たちほど、集団としての連帯性がつよくなり、教会よりも聖書に軸をおくプロテスタントのほうが個人が個人として独立、あるいは孤立しやすくなるのではないか、という話がわかるような気がしてくる。デュルケムは、人々の信じる宗教の教義内容によるのではなく、信仰行動の特徴が、社会構造をつくっていく、としている。

 

宗教と信仰行動という点で、宮島さんはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についても言及している。マックス・ウェーバーも、宗教的な要因を考える時、教義内容よりも人々の行動への影響を考えることが大事と言っている。
プロテスタントの、各人が自分で聖書を手にして信仰を自分で解釈する、という実践は、より個人主義になっていった、と。

カトリックも、プロテスタントも、教義としては自殺を禁じている。でも、どちらにも自殺者はいる。そして、宗教でみれば、ユダヤ教カトリックプロテスタント、と自殺率は高まる。
デュルケムは、だからと言って個人主義プロテスタントがいけないといってるのではなく、孤立した不安定な個人となっていることが問題だといっている。常軌を逸した個人主義が自殺を増加させているのではないか、という問題意識だった。だからといって、伝統的カトリシズムの復活は時代錯誤であり、今の時代にあったなにかが必要なのではないか、と。


現代にも通じる考え方だと思う。
孤立。
宗教に限らず、社会構造の変化から孤立した人が増えることは、直感的に危険な感じがある。人間は社会的動物だ。。。

 

自殺の種類をいくつかに分類して解析している。
集団本位的自殺というのは、昔の日本でいう切腹みたいな、集団として死を奨励するもの。
自己本位的自殺というのは、集団所属感の欠如により、人間関係の悩みに原因があるもの。
アノミー的自殺というのは、思い通りにならない自分への嫌悪、欲求不満に原因があるもの。

アノミーという言葉は、アノモス、神が不在、カオスということ。

 

社会学の研究として、アノミーがもたらす自殺の危険について、デュルケムはさらに深く言及している。より自己中心になっているアノミーの世界。


社会の変化、上昇志向、物質的欲求がたかまって、求める理想が高くなる。自分への理想が高くなり、あるべき自己イメージと本当の自分が乖離するほど、アイデンティティーの危機となり、自殺につながるのではないか、と。アノミーにおける欲望を病理とみた。アノミーの中におかれた欲求は、自己とは乖離して、その欲求はいつも裏切られる。疎外されている。
自殺には関係しないけれど、似たような指摘に、マルクスの「疎外」がある、という。
デュルケムの疎外は、私的な欲求生活における、疎外。

 

疎外と孤立。

社会構造から生じる疎外。
社会構造から生じる孤立。
同じものかもしれない。


自己本位的自殺は、人間関係的な文脈で生じる。
アノミー的自殺は、自己イメージあるいは自己像をめぐる葛藤から生じる。

どちらも、、、苦しいだろうな。


宮島さんは、デュルケムの考察した時代を、日本の高度成長期における社会構造変化と重ねてみている。
「進歩」とか「繁栄」の蔭にかくされて進行する、人間の問題があるのではないか、と。

宮島さんは、豊かさの中に人間の危機をみたのかもしれない。

2022年のなか、豊かさとはちがう、やはりなにか社会構造変化に隠された危機はあるのだろう、、、という気がする。

経済が上向きでも下向きでも、人々は「物質的充足」とは別に、「心の充足」を求め続けているのではないだろうか。
表面的に見えているモノの下に、もっともっと、、、人間的な何かが、いつの時代もかわらず、ずーーっとあるような気がする。


面白いのは、19~20世紀に、すでに「進歩」を金科玉条とすることに疑問を投げかけられていた、ということだ。

 

過去に戻ろうというのではなく、進化は続けるけれどその中に忘れてはいけない何かもある。強すぎる結びつきは、他者排斥につながりかねないけれど、結びつきの弱さも社会に脆さをもたらす。

 

『生き心地の良い町』のような、うまい、紐帯。中庸。バランス。

megureca.hatenablog.com

 

何事も、バランス、と言ってしまえばそれまでだけど、やはり、バランスって大切なんだと思う。

 

人は、なんで、自殺しちゃうのかなぁ。

自殺してしまったことを責めたりしない。

でも、やっぱり、悲しい。

どんな人であれ、やっぱり、自殺はしてほしくないな、と思う。

 

自殺ゼロの社会を作りたい、と思う。

何ができるかは、わからないけれど。

と、そこにはまりすぎても、私がバランスを崩すといけないので、心の片隅でいつも思っている。

 

自殺はしないでください。

だれも、自殺はしないでください。

 

 

『デュルケム「自殺論」を読む』

 

 

禅の言葉  坐禅の醍醐味は、「定(じょう)」に入ること

坐禅の醍醐味は、「定(じょう)」に入ること。

 

今朝教えていただいた、禅の一言。

「定」(じょう)

 

坐禅を習慣化すれば定力(じょうりき)(禅定力)を得ることになる。

心が定まった状態の落ち着きを「定」という。


禅では、戒・定・慧(かい・じょう・え)の三学を大事にする。

 

「戒」は「ならぬことはならぬ」と自らが直感で判断する戒め
 他律的な戒律ではなく、自分が直感で判断する戒め。


「慧」身体全体で理解すべき真理(悟りの智慧)のこと。
 頭、前頭葉で理解する智慧ではなく、身体全体で考え、理解する。

 

「定」は、最も重要な基本で、三昧(サマーディ・禅定)に入ること。
 無念無想の状態に没頭すること。
 丹田呼吸と共に“シーン”とこころを静め、こころの真髄を捉えること。
 静かに、心が落ち着いていること

 

えもいわれぬ力(定力)がそこからにじみだす。
生きる真の自信がわき出てくる


深沈厚重(しんちんこうじゅう)が、一番大事。
考えてあれこれ動くのも大事だけれど、まずは、どー--んとした落ち着きを、ということ。

 

頭をつかって、いっぱい考えて、いっぱい動くのも大事だけれど、まずは、どーんと落ち着いて、視野を広く持って、身体全部で考える、ってことかな。

 

あせらない、あせらない。

人と比べない。

自分のペースでいこう。

 

うん、それでいい。

 

 

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』 by マイケル・ピュエット クリスティーン・グロス=ロー

ハーバードの人生が変わる東洋哲学
悩めるエリートを熱狂させた超人気講座
マイケル・ピュエット
クリスティーン・グロス=ロー
熊谷淳子 訳 
早川書房
2016年4月20日 
(The Path)

 

何かの書評で目に入って、図書館で借りてみた。

表紙の裏には
「自分探しをするな」
「ポジティブが良いとは限らない」
いまハーバード大学で、東洋思想の授業が絶大な人気を誇っているのはなぜか?
現代に当てはめた孔子孟子老子等の教えに、学生たちが熱狂している理由とは?”
とある。

 

目次
1 伝統から”解放された”時代
2 世界中で哲学が生まれた時代
3 毎日少しずつ自分を変える  孔子と〈礼〉〈仁〉
4 心を耕して決断力を高める  孟子と〈命〉
5 強くなるために弱くなる   老子と〈道〉
6 周りを惹きつける人になる  『内業』と〈精〉〈気〉〈神〉
7 「自分中心」から脱却する  荘子と〈物化〉
8 「あるがまま」が良いとは限らない 荀子と〈ことわり〉
9 世界中の思想が息を吹き返す時代 

 

感想。面白い。

面白いのは、東洋思想をアメリカでの出来事の解釈に当てて話が展開するから。私にとっては、礼とか徳とか言われても、とくに驚くべき教えでもないし、孔子孟子老子荘子、、だれの教えだったのかもどうでもよくて、普通に子供の時からそういうものだと教わってきた、、というのか、感じてきたというのか、、、。

 

よく、日本の小学校で、児童が掃除をすることが、海外では驚くべき教育方法だと言われる。日本の小学校で育ったら、教室を自分たちで掃除するなんて、なぜ?なんて疑問を持つ暇もなく、当たり前だった。
礼とか、仁とか、そんな難しいことを考えて掃除をしていたわけではなく、日常生活の中にそういう教えがあった。日常をきちんとすることが、日本の古くからの教えなのではないだろうか。

 

私にとっては、キリスト教の予定説(選ばれたものだから頑張る)もなければ、終末論を信じているわけでもないので、「自分探しをするな」という言葉の意味も、アメリカの学生がとらえるのとはちょっとちがうのかもしれない。
東洋思想では、自分探しはしないんだ、なんて教えられなくても、養老先生の「自分探しなんてやめちまえ」で、納得しちゃうし、ハーバードの学生とは文化的背景が異なるよなぁ、とつくづく思った。

megureca.hatenablog.com

 

また、『異端の人間学』のなかで、アメリカの新自由主義の幼稚性、ということが佐藤さんの言葉で語られていて、加えて『「悪」の進化論』でかたられていた「自国が戦地にならなかったことで、人間の理性の限界に疑問をもたなかったアメリカ」が、そのまま、今も続いてる感じが、紀元前の中国の思想家の話を新鮮に感じるアメリカになっているというのか、、、と、ちょっと、違う視点でみてしまって、面白い、と思った。

megureca.hatenablog.com

megureca.hatenablog.com

 

私にとっては、東洋思想を学ぶ本、というより、アメリカ人が東洋思想をどうとらえているか、っていう本として面白い。

全体に、そんな感じがしながら、おもしろいなぁ、とおもいつつ、さらー-っと読んだ。早川書房の本にしては、さらー-って感じ。

 

孔子と言えば論語。礼と仁。説明するまでもないだろう。他者に対してふさわしい行いを日々の生活の中で実践する。お願いします、と、ありがとうございます

 

孟子は、理性と感情と両方の重要性。かつ、自分に影響を与えることも自分ではコントロールしきれるものではない。与えられた命を大事にするということ。
偉大な人物とそうでない人との違いは、やみくもに感性のみや知性のみに走るのではなく、「理性+感情」である心に従う能力だと。
知識を蓄えつつも、感情にも磨きをかける。そして、敏感に世界に反応できるようになり臨機応変な対応ができるようになる。道理にかなった正しい判断を下せる力こそ「権道」。


老子は、支配ではなく、つながりで世の中を収めるという「道」。強さで強さを制することで力が生まれると考える代わりに、全く異質な事柄や状況や人の間のつながりを理解することから真の力が生まれる、と考える。あからさまな強さでなく、自然に誰も疑問を持たないような世界を作り上げるのが真の影響力。
著者らは、ここでアメリカの歴代の大統領をあげる。

 

リンカーン。有名なゲティスバーグ演説
government of the people, for the people, by the people.
「人民の、人民による、人民のための政治」
自分だって、奴隷を使っていたくせに、、、、アメリカは全ての人が平等に作られているという命題に掲げられた国家であることを、暗に唱導するために語った。今では全ての人が平等であるというのはアメリカ建国の理念だった、と一般に考えられている。

 

ローズヴェルトは、ニューディール政策を実行した。世界恐慌の最中、経済を再建し、困っている人々を助けるために大きな政府が必要だと考え、新しい改革を打ち出した。当時、合衆国最高裁判所はそのような構想は合衆国憲法に反すると異を唱えた。しかし結果的にはこれは実行された。累進課税最高税率は、90%にまで至った。 この財源により、大規模な公共インフラ事業と徹底した教育制度を構築することができた。

 

レーガンは、ローズベルトの行ったニューディール政策アメリカ経済を救うどころか後退させたとした。 そして大きな政府から小さな政府へ。新自由主義へと移行していく。

3人それぞれ大転換を図ったわけだが、 それは力によって押さえつけたのではなく、人々の繋がりを大切にしたことで成し遂げられた、と。老子の思想に沿っていたのだと。

過去をこのようにとらえ直しているところが、面白い。

 

著者らは、『五行』とは、仁・義・智・礼・聖であり、このバランスが大事なのだと語っている。そして、どれかが突出しそうになったら、他にも気を配り、絶えず変化するものに自分自身も変化しながら修行していくのだと。それが真の恒常性となり、より安定した状態に到達でき、感情的にあちらこちらと揺さぶられなくなるのだと。 そして、その結果、〈神〉が損なわれずに体内を流れるようになる、と。ここで〈神〉という言葉が出てくるあたりが、アメリカだなぁ、、、、という気がする。

「神は、心の中にある」。シュライエルマッハーの思想は現代にもある。

megureca.hatenablog.com

 

荘子も同じく「道』を説く。

日本人は、剣道、書道、茶道、華道、、、道って、特に説明しなくても、あぁ、道ね、、、っていう共通概念があるように思う。変化するものと一体化する。
東洋の輪廻転生という円の時間観と、キリスト教の直線の時間観。ちがうのだけれど、世の常は変化し続ける、、そこは共通なのかな。

 

最後の方に、孔子の言葉がそのまま引用されている。
「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う
七十にして、心の欲する所に従って矩をこえず。」

 

そして、 「伝統」にとらわれるのではなく、今を生きればよいのだ、と。

 

もともと、中国から発生したこのようなものの考え方、組織の在り方は、様々な国の制度のもとにもなっている。でも、中国は、ヨーロッパに出現したような資本主義にはならなかった。その不思議さをマックスウェーバーも理解しようとした。そして、中国では超越論的な原理が欠如していて、それが制約になっていると結論づけた。儒教プロテスタント主義は、大きく異なる哲学的な基盤を築き上げ、その結果、中国は世界に順応し、西洋は世界を変化させようとする、と論じた。さて、21世紀の今、マックスウェーバーが今の中国をみたら、何というのだろうか。

でも、確かに、中国が中国でありつづけているのは、不思議といえば不思議だ。中国共産党の成せる技なのか、、、。

 

東洋思想の解釈は、色々だ。自分に都合よく解釈することもあるかもしれないし、教訓的に解釈することもある。思想家によっても、考えは異なる。それでも、これらを一冊の本にまとめたのは、これらの多様な、それでいて東洋的である思想を自分の人生に応用せよ、ということ。
著者らは、ただ、自分の運命を受け入れることをすすめているわけでもない。実社会と日々の生活の中で、受け身から抜け出し、自分の生きる世界を変化させていくことが大事だと説く。絶対の法則、画一的な宇宙の秩序などない。だからこそ、
「そんなものなどないと考えた時、自分の人生はどうなるのか」を考えてみよ、と。

日常の生活のほんのささいなことから、そこから、あらゆるものを変えていく
ささいなことに、目を向ける。
それが、アメリカ人からみた東洋哲学の解釈なのかな。

 

なかなか、興味深い、アメリカ人の東洋哲学の解釈の本、って感じ。
面白い。 

 

やはり、哲学と宗教は切り離せないのだ。

そして、歴史と哲学も切り離せない。

学問というのは、どれ一つとして独立していない。

という、ことに五十にして気づく。

まだまだ、学成り難し、、、だわ。

 

読書は楽しい。

 

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』