庭の話
宇野常寛(うのつねひろ)
講談社
2024年12月9日 第1刷発行
2025年2月6日 第3刷発行
新聞広告だったか、雑誌だったか、、、忘れてしまったのだけれど、『暇と退屈の倫理学』の國分功一郎さんのコメントが載っていたのだったと思う。そして、図書館で予約していて、数か月待って順番が回ってきたので、借りて読んでみた。
著者の宇野さんは、 1978年生まれ。 批評家。私は、多分初めて名前を聞いたし、著者を読んだこともない。批評誌〈PLANETS〉編集長。 立教大学社会学部兼任講師。
講談社のHPにある著書紹介には、
”『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』への刮目すべき挑戦が現れた。情報社会論より発せられた「庭」と「制作」という提案から私は目を離すことができずにいる。(國分功一郎)
プラットフォーム経済に支配された現代社会。しかし、そこには人間本来の多様性が失われている。著者は「庭」という概念を通じて、テクノロジーと自然が共生する新たな社会像を提示する。(安宅和人)
*プラットフォーム資本主義と人間との関係はどうあるべきなのか?
ケア、民藝、パターン・ランゲージ、中動態、そして「作庭」。一見無関係なさまざまな分野の知見を総動員してプラットフォームでも、コモンズでもない「庭」と呼ばれるあらたな公共空間のモデルを構想する。『遅いインターネット』から4年、疫病と戦争を経たこの時代にもっとも切実に求められている、情報技術が失わせたものを回復するための智慧がここに。
”
とある。
淡い緑から青へのグラデーションに文字のみのシンプルない表紙。365ページの単行本。手にした瞬間に、おっと、ちょっと読むのに時間がかかりそうな、、、と思う。
目次
#1 プラットフォームから「庭」へ
#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング
#3 「庭」の条件
#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
#6 「浪費」から「制作」へ
#7 すでに回復されている「中動態の世界」
#8 「家」から「庭」へ
#9 孤独について
#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ
#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男
#12 弱い自立
#13 消費から制作へ
#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ
感想。
ほほぉ。面白い。
1978年生まれかぁ、、、。括弧でくくると著者に怒られそうだけれど、 就職氷河期世代のちょっと冷めた視点が、じんじんと伝わってくる。「飲み会」大嫌い、一人でいることをほっといてくれ、という主張、わかる。わかるけど、世の中の飲み会が全てくだらないと切り捨ててしまうのは、ろくでもない飲み会しか経験できなかった世代だからなんだろう・・・。著者にとっては、飲み会は誰かの悪口をいって、「つるむ」ための会だったようだ。そりゃ、くだらないよね。
本書は、個人の生きる空間とデジタルプラットフォーム空間との間に、「創造」的活動ができる「庭」のような空間が必要だ、と言う話。ガーデニングの本ではない。里山資本主義的な話かと思ったら、そういうことでもない。地域活性化の話ではない。
庭というのは、あくまでも比喩。でも、人がいて、植物があって、動物もいて、ただ自然状態であるのではなく、人の活動によって人工的に作り出された環境。コモンでもない。著者が、斎藤幸平さんの「コモンに帰る」とか「脱成長」という主張に反対しているところも、私には、大いに共感できる。私も「脱成長」と言う言葉が嫌いだし、それが持続可能な社会をつくるとは、到底思えない。
最初に、 イギリスのジャーナリスト、デイビッド・グッドハートの世界の見立てがでてくる。世界には、Anywhereな人々と、Somewhereな人々がいるという。
・Anywhereな人びと:「どこでも」生きていくことができる人びと。 グローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、 クリエイティブクラス。
・Somewhereな人びと:「どこかで」しか生きられない人々。 20世紀以前の製造業を中心とした旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持つ人々。
Anywhereな人びとは、個人でもグローバルに社会とつながれる。Somewhereな人びとは、”X(Twitter)”などのSNSで誰かの政治的意見に「いいね」をつけたりリツイートすることでグローバルな社会につながっていると感じたがる。
Somewhereな人びとが、ブレグジットやトランプ大統領を生み出した、と。
うわぁ、、、わかるなぁ、、、その感覚・・・。ちょっと、こわい。田舎の高齢者が、テレビをずっとつけているのが、デジタル時代になってSNSへの反応に変わっただけ、、、。かつ、だれでも簡単にネットは反応、投稿できるのだから、その真偽がどうであれ反応が多ければ多いほど、バズるという恐ろしさ。
著者は、Anywhereな人は、「市場で評価される」ことで自己実現をはたし、Somewhereなひとはネットを含めた「共同体で承認される」ことで、自己実現を果たそうとする。ここに分断がある。だから、第三の回路として「庭」=人が活動し、多様な事物とのコミュニケーションもとれ、人は関与できるが完全にはコントロールできない場が必要なのだ、と。また、その「庭」は、孤独になれることが必要だということ。
著者は、「コモン」こそが、他者を排除する共同体の典型だという。困ったときにご近所にお醤油を分けてもらえる社会と、いつでもお金をもっていけばお醤油を買える社会と、どちらが平等で、弱者でも暮らしやすい社会科。お醤油を買える社会なのだ。弱者は、「お醤油下さい」と言えないから弱者なのに、いつでもお醤油を貸してもらえる社会が助け合いの美しい社会かのようにいうのは、違うだろう、と。
わかるなぁ。その感覚。「コモン」に入りたかったら、俺たちのしきたりに順えよ、っていう無言の圧に感じる違和感。もちろん、自分の意志でどこかに所属先を求めるは、社会的動物である人間の自然な行為だし、それが悪だという話ではない。ただ、同じ価値観を万人にもとめて、平等とか、繁栄とかいうなよ、って話、かな。
私には、最初の1/3くらいが面白かった。途中、すこし中だるみを感じつつ、最後は、やっぱり「庭」をあきらめるんかい!とつっこみたくなる論調になり、それでも、「庭」なるものを探し続けることが大事だ、っていうまとめ。
問題提起のポイントは、すごく共感する。「孤食」を社会悪かのようにいう、ティピカル一般家庭を持つ人々への批判も、共感する。小さな子供が、一人で食事をするのは本人の選択ではない可能性があるから、それを解消できる社会というのは望ましい点もある。でも、世の中、誰でも彼でも、わいわいがやがや、大勢と楽しく食事をするのが日常であることを求めてはいない。たまにはいいけど、会食含めて周りに人がいると自分の食事に集中できないから嫌だという人もいる。「みんなで」の押し付けに違和感を覚える著者の感覚は、私もつよく共感。頭木さんの、一緒に食事をできないからということでそのコミュニティーから排除されるという話が頭をよぎる。
「一人」を悪としない、「みんな一緒」の空虚な世界の否定みたいなところが、面白い一冊だった。
個人的には、著者の言う「庭」のような機能を果たしているのは、実は「美術館」とか「博物館」とかかもしれない、と言う気がした。芸術、歴史、科学、、、その日の暮らしとは直接関係ないけれど、人生を豊かにしてくれる「場」。行っても行かなくてもいいけど、行こうと思ったときに行ける場があること。それは大事な場所な気がする。
ネット上のコミュニティでもなく、お金を稼ぐための会社でもなく、生物として休息するのに必須な家でもなく、訪れる人々は、評価もされなければ承認もされない。ただ、個人が何かを感じるための時間を持てる場所。旅も、庭つくりの一つかも。
人生には、そういう場所があった方がいい。そういう場所があると思えることが「安全地帯」になるのかもしれない。大人にも子供にも、安心できる場があることこそ生きる基本。
最後の方では、「庭」を提供できるのは、「戦争」であるという話がでてきて、え?!どういうこと?という感じの展開になる。坂口安吾の『戦争と一人の女』がもとめた戦争のかわりとなるもの。なにも、戦争しようといっているわけではない。戦争くらい「生」の実感を感じられるものはない、ということ。そして、丸山眞男の「である」ことと「する」ことの話へ。庭は、「である」でも「する」でもないところなのだと。う~ん、飛躍するなぁ、、と言う感じで最後のほうはざーっと読み飛ばしてしまった。
すこし痛いところもあるけれど、なかなか面白い一冊だった。この著者の20年後の著書を読んでみたい。
気になったところ、覚書。
・ Somewhereな人びとは、直接グローバルな評価を得られる場に関与できないので、政治的なアプローチに夢中になる。インターネットは、参加している実感や快感を容易に得られる場となっている。それを意図的に操作した結果、2016年トランプ大統領の登場。彼らが求めるのは、政治的に賢いことでも論理的に正しいことでもなく、自分が世界に素手で触れているという実感。
・”「 家」族から国「家」まで、ここしばらく人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。 しかし人間は家だけで暮らしていくのではない。「家庭」という 言葉が示すように そこには庭があるのだ。 家という関係の絶対性の外部が、その暮らしの場に設けられていることが人間には必要なのではないか。”
・本書の提示する「庭」の条件。
1. 人間外の事物とコミュニケーションを取る場所。
2. 人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築している場所。
3. 人間がその生態系に関与できること。 しかし 完全に支配することはできない場所。
くわえて、人間を「孤独」にする場所。
・コレクティフ(Collectif): 構成員である個々人が自分の独自性を保ちながら、しかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態。精神科医 ジャン・ウリの提唱する概念。 サルトルが『弁証法的理性批判 Ⅰ』で用いた概念。
・著者が、齋藤幸平が著書『人新世の資本論』で展開する資本主義に対する批判に対する反論。
” しかしここで問題にしたいのはこれらの言説がことごとく、 資本主義化の物質的な豊かさと それが保障する 精神的自由を手放した埋め合わせ として、 共同体への回帰を推奨していることだ。”
著者は、日本の共同体こそが「村八分」をつくってきたと述べている。そして、「お醤油を下さい」と言えない人はそこでも村八分にされる、と。
・『限界費用ゼロ社会』:ジェレミー・リフキン。著者は、ここでリフキンが言及している日本の協同組合、協働型コモンズについて、「村八分」を助長している事実をしらずに語っている恥さらしと痛烈に批判している。
・「江戸しぐさ」:1980年代に芝三光が創り上げた創作物、つまりでっちあげの「嘘」にすぎない。
え?そうだったの?と驚いた。「傘かしげ」、「こぶし腰浮かせ」などは、芝の捏造だそうだ。
・”共同体への回帰は強者たちによる傲慢な主張だ。・・・・弱い状態にある人間にとって必要なのは「ひとり」でいても寂しくない場所なのだ。”
・田中浩也:鎌倉のサーキュラーエコノミー取り組みの専門家。ごみ捨てのような「静脈」にアプローチ。 高い精度で分別されたゴミは デジタルファブリケーションによって町の様々な公共物に再利用されていく。 自分が分別して出した「ゴミ」が、公園のベンチになったとか、遊具になったとか、トイレットペーパーになったとか、そういった結果が知らされる ゲームフィケーションの仕組みを導入。「静脈」は「動脈」と違って、生きていれば必ずやっている活動。そこに、個人として直接かかわれる仕組み。
未来を創造するためには、「脱成長」ではなく、「庭」をつくろうという一冊。なかなか面白かった。読後感の「解決しないけど、糸口が見えた」ような感覚がいい。
国家間が戦争で争っている場合でもなければ、個人がネット上で批判し合っている場合でもない。もっと、地球人としてこの地球を豊かにしていこう。10年も、100年も、1000年も、続く世界を描いてみよう。
